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2002.10

 
仏教の「罪」と「懺悔」

己の心を見つめる―これは仏教の基本です。外側に向いている眼を内側に向ける。そこに何があるか…。一切の衆生に仏性あり、といわれますが、そこには悟りの種となるような輝きがあるでしょうか。それとも、その輝きを覆ってしまうような、正視しがたいおぞましいものがあるでしょうか。
おぞましいものとは、例えば過去の傷ついた経験の記憶、後悔、自己嫌悪、他人に対する憎悪、嫉妬心、復讐心、耽溺への誘惑等々…まるで、心の中に棲む、別の生きもののようです。しかし、彼らを厭い嫌って、隅の方へ追いやろうとすればするほど、彼らは力をもって私たちを圧倒しようとします。ここが、己の心のままならぬところです。

例えば、仏教には「五逆罪」という五つの重い罪があります。これを犯すと「絶え間なく極限の苦しみを受ける世界」に行くといわれています。
その第一は「母親を殺す」、第二は「父親を殺す」、第三は…と続きます。
「親を殺すことは、人としてもっとも重い罪である。」そう定められているということは、裏返して言えば、はるか昔の時代からそうした罪が(頻繁ではないにしても)行なわれてきた、ということでもあります。
親を殺す、とまではいかないにしても、今日さまざまな事件が報道され、中には眼や耳を覆いたくなるようなことも多いですね…しかし、これは今に始まったことではありません。人間の罪や煩悩という点に関しては、現代が「特殊な時代」ではないのです。人間が存在を始めたときから、連綿として人間は罪と煩悩に苦しみ続けてきたと言っても過言ではないでしょう。
もしそのような事件に関わらずに済めば、幸運といえるかもしれません。しかし、誰しもが時と場合によっては加害者になり、被害者になり得ます。自分の内側をのぞいてみましょう。自分の中の加害者、あるいはそこに至る前の暴力の萌芽を敏感に感じ取ることができるでしょうか。
競争心や嫉妬心、憎悪、復讐心…こうした気持ちは、生きていく中で誰の内側にも起こり得るものです。それらの気持ちが激しく燃え上がってきたとき、どうするか。袋小路にはまって、極端な選択を迫られているように思い込むこともあります。その場合、他人や自分自身に対して破壊的な態度を取ることになる…。

「仏の前に一切を捧げ、懺悔せよ。」
罪と煩悩に苦しむ人間に対する、これが先師の教えです。これは、ただ単に「重荷をおろしなさい」ということではありません。自己のネガティブな側面は、ある意味では大変なエネルギーを蔵しています。仏の現前で懺悔することによって―仏の赦しのもとで、それが自己の一部であることを認めます。ささいなことであっても、それを事実として認めていきます。
それによって、「破壊」から「創造」へのエネルギーの転換が起こります。あなたは新たな出発―新たな生命のほとばしりを感じることができる。

懺悔とは、大きな創造力をもっているのです。「破壊」と「創造」―その選択の鍵は、私たち一人ひとりの手の中にあります。