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2004.03

 
歎異抄のこと

前回の予告では四誓偈の解説についてお話しする予定でしたが、私ども浄土宗の僧侶が日ごろご質問を頂く機会が多いため、今回は
「浄土宗と浄土真宗はどこが違うの?」
ということについてお話ししたいと思います。四誓偈については来月以降に続けます。

さて皆さん、浄土宗と浄土真宗は、同じ「なむあみだぶつ」なのにどこが違うのでしょうか。
ここに『歎異抄(たんにしょう)』という書物があります。親鸞聖人のお言葉を集めたもので、ご存知の方も多いでしょう。そのなかに、次の文章があります。
「親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまひらすべしと、よきひとのおほせをかうぶりて信ずるほかに別の仔細なきなり…」
つまり、「わたくし親鸞においては、『ただ、念仏を申して阿弥陀さまにお救い頂くがよい』と、良き人―法然上人―の教えを受けてそれを信ずるだけであって、その他には何のいわれもない」と言っておられます。さらに続けて、
「念仏が本当に浄土に生まれる種なのか、それとも地獄に落ちる業なのか、自分は全く知らない。しかし、もし自分が法然上人にだまされて、念仏して地獄に落ちたとしても決して後悔はしない。
なぜなら、他の修行に励んだら悟りを開けるところを、念仏したせいで地獄に落ちたというならば『だまされた』という後悔もあるだろう。しかし、いずれの修行も全うできぬわが身であるから、どうせ地獄行きに決まっている。」
だから、法然上人の教えを信じて念仏するしかないのだ、というのです。

親鸞聖人はかように深く法然上人の教えを信じておられたのであって、法然上人とは別の教えに基づく教団を創ろうとは考えておられませんでした。
歴史的なさまざまな経緯の中で、別々の教団として発展してきた浄土宗と浄土真宗ですが、そのルーツはひとつである、ということがお分かりいただけるでしょうか。
ご先祖の供養のしかたやお勤めの内容などについては違う点もあります。浄土宗の中にも「法然上人と親鸞聖人はここが違う」という議論があります。しかし今ここでは、「もとの教えは同じである」ということを強調したいと思います。なぜなら「浄土宗と浄土真宗はここが違う」ということを知って、頭で理解したつもりになると、肝心の念仏信仰の心がおろそかになるかも知れないからです。

心からとなえるお念仏―これに優るものはありません。

※関連のQ&Aもあります。質問1質問64などご参照下さい