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2006.04

 
御忌―法然上人のこと

今月、浄土宗の総本山知恩院(京都)や大本山増上寺(東京)などで、「御忌(ぎょき)」という盛大な法要がつとめられます。この法要は、浄土宗を開かれた法然上人のご命日(本来は旧暦1月25日)に、そのご遺徳を偲び、ご恩に対して感謝を捧げるものです。
法然上人は、現在の岡山県に生をうけられました。お父さまの名は漆間の時国、お母さまは秦氏のご出身です。
ご夫婦は、なかなか子供ができないことを嘆いて、夫婦こころをひとつにして仏神に祈っていたところ、お母さまが不思議な夢(剃刀を飲む夢)をご覧になり、すぐに懐妊されました。
生まれた子は、智慧の菩薩さまの名にちなみ、「勢至(せいし)」と名付けられました。子供の頃から才知に富み、まるで大人のようなところがありました。
9歳のとき、お父さまが突然の夜討に遭って倒れます。そのときの息子への遺言は、
「汝、敵を恨むことなかれ。これひとえに、先の世の宿業なり。もし遺恨を結べば、そのあだ世々(よよ)に尽きがたかるべし。はやく俗をのがれ、家を出で、わが菩提を弔い、みずから解脱を求めよ。」
というものでした。仇討ちを考えてはならぬ、出家して仏道を歩め…。
この遺言に従って上人は出家され、のち比叡山に登り学問を究められます。
そして43歳のときに浄土の法門―他力念仏の教えを開かれました。

さてここにご紹介するのは、法然上人が80歳でお亡くなりになる、その3週間ほど前からのご様子です。

1月2日。このところ食が進まれなかったが、なお召し上がらなくなられた。一方、この3、4年、視力・聴力が衰えておられたが、それが昔通りにはっきりしてこられた。周囲の人はこれを喜び、たいそう不思議に思う。
2日以降は、往生のことの他はあまりものをおっしゃらず、いつも念仏を称えておられる。睡眠中も、口と舌が動いておられた。
翌3日、ある弟子がこう尋ねた。
「こたび、ご往生は決定か。」
上人は、
「われ、もと極楽にありし身なれば、さだめてかへりゆくべし」
とお答えになられた。
11日、上人は起きられて、大きな声でお念仏をされた。聞く人は皆、涙を流した。お弟子さん方におっしゃるには、
「高声(こうしょう)に念仏すべし。弥陀仏の来たり給えるなり。この御名をとなうれば、一人として往生せずという事なし。」
このようにお念仏の功徳を讚えられる。あたかも、熱心に布教された往時のようである。
同日、弟子たちが3尺の阿弥陀像を法然上人の床の右にお祀りした。
「このお仏像をおがまれますか。」
と尋ねると、上人は目の前の空中を指さし、
「この仏のほかに、仏がおられるというのか。」
とおっしゃり、さらにこう言われた。
「およそこの10余年、念仏の功徳が積もり、極楽の様子や阿弥陀如来、菩薩たちのお姿をおがみたてまつること、ふだんの事なり。しかれども、日頃は隠して言わず。いま最期に臨めり。かるがゆえに示すところなり。」
23日も1時間、2時間と、上人の高声念仏は続く。この日、あるお弟子の「最後のみ教えをお願いいたします」の求めに応じて筆を執り、『一枚起請文』を書かれた。
24日の夕方から、25日の朝方まで、身体の無理を押して高声念仏を続けられる。5、6人の弟子が代わる代わる声を合わせて念仏したが、弟子の方が疲れて休んでも、法然上人は休まれなかった。これは未曾有のことであり、集まった僧侶や信者たちは皆、感極まって涙を流した。
25日の昼前から、お念仏の声が微かになる。まさにご臨終のとき、慈覚大師の九条の袈裟をおかけになり、「光明遍照 十方世界 念仏衆生 摂取不捨」の文をとなえて、眠るがごとくして息を引き取られた。声が止まられてからも、なお口と舌が十数遍動いておられた。お顔の色はまことに鮮やか、表情は微笑んでおられるようであった。
建暦2年(1212年)、1月25日のちょうど昼12時のことである。