コラム目次へ

コラム倉庫

2008.09

 
阿弥陀経の物語〈上〉(全2回)

その日は、穏やかに晴れた素晴らしいお天気でした。
暑すぎることもなく、爽やかな風がそよぎわたっています。林は豊かな緑に輝き、小鳥たちもそこかしこで歓びの歌を歌っています。
今日は、私たちのお釈迦さまが特別なお話をなさる、ということです。高弟の方々をはじめ、たくさんの人々が集まっています。優に1000人は越えるでしょう。そうそう、ご案内が遅れましたが、ここはインド、コーサラ国の都にある「祇園精舎」という名前の大きなお寺です。

お釈迦さまはすでに壇上に登られ、ゆったりとした大きな台の上に、両足を組んで坐っておられます。お顔の輝きはふだんにもまさり、その焔のような明るさは太陽や月をもしのぐのではないか、と思われました。
お釈迦さまは、優しい微笑みをたたえ、集まった人々に目を向けられました。すぐそばに坐っている舎利弗さまや目連さまを見つめ、また遠くに見えるお弟子や信者の方々を眺めながら、しばし沈黙しておられます。
一同は、ワクワクしながらお釈迦さまがご説法を始められるのを待っておりました。やがてお釈迦さまは口を開かれ、力強い、深みのあるあのお声が響き渡りました。

「皆、わたしの顔を見るがよい。わたしの顔は、ふだんにも増して光り輝いているであろう。
わたしは今、歓びにあふれているのだ。なぜなら、今日は浄土の教えについて話すつもりだからだ。」
このように前置きをされると、お釈迦さまはすぐに本題に入られました。
「ここから西の方、はるか彼方に、極楽国と呼ばれる世界がある。そこには阿弥陀仏という名前の仏がおられ、いつでもあなた方に救いの手を差し延べられているのだ。
かの世界には苦しみがなく、人々はただただ安楽のうちに、修行を楽しんでいる。ゆえに、この上ない楽しみ、極楽と呼ばれている。
この極楽世界には、信じられないほどの美しさがあふれている。今は、この祇園精舎にある樹々も豊かな緑を湛えているが、かの世界に並ぶ樹々の美しさといったら、これとはまったく比べものにならない。極楽に茂っている樹々は、みな色彩豊かな宝石の輝きを放っているのだ。池にある蓮華も色とりどりの巨大な花を咲かせ、新鮮さとともに、悠久の時の流れを湛えている。
実のところ、わたしたちのこの世界でも、樹々は神聖さに輝いている。草原や、岩や小石でさえ神聖さに満ちている。だが、それを感じとることができるのは、目覚めた人々だけだ。覚りをひらいたごくわずかな人々…。
極楽世界はそうではない。樹々も、大地も…すべてが初めから神聖さに輝いている。豊かな宝石の輝きに満ちている。いまだ目覚めていない者でも、その美しさに圧倒されてしまうことだろう。」

お釈迦さまがそこまで話されたとき、一羽の鳥の鋭い鳴き声が、そのお声をさえぎりました。うつむいて話を聴いていた人たちも、ハッと顔を上げてしてお釈迦さまのお顔を注視します。お釈迦さまは、半ば目を閉じられ、鳥の声の残響が完全に消えゆくまで、ゆっくり味わうように耳を傾けられると、口を開かれました。
「かの世界にも、あのような鳥たちがいる。だが、その声の素晴らしさといえば、まるで覚れる人たちの説法を聴いているようだ。鳥の声に言葉はない。だが、その声、そのハーモニーがあなたの中にしみ通ると、それだけであなた方に清らかな目覚めを呼び覚ますのだ。

さて、かの世界はいかにして創られたのであろうか。それは、私たちの住んでいる世界のように、自然が創造したものではない。今、この生身の手で触れたり、また肉眼で誰もが見ることができるような世界ではないのだ。
また一方、極楽国は私たちが心で思い描く、夢のような世界でもない。私たちが自分の心の中に極楽世界を持っているならば、それは一人一人別のもの、ということになってしまう。そうではなく、極楽は、かの阿弥陀仏がその心の力で創られた世界なのだ。
心の力で創られた世界であるゆえ、手で触れたり、皆の前で『これがその世界です』と言ってみせたりすることはできない。また、『心の力』といってもそれはあなた方の心とは違う。すでに覚りをひらかれた仏の心の力なのだ。だから、それは想像を超えた現実の世界だ。その場所は、言い伝えでは、『ここから西の方角、十万億の仏土を過ぎたところにある』と表現されている。
阿弥陀仏という仏も、私たちのように、両親から生まれた生身の身体をしているわけではない。修行の結果、心の力によって創られた身体をもっているのだ。この身体は生身ではないので、死ぬことがない。そして、この身体は言葉では表わしようのない光、巨大な爆発が起こったような光明に輝いている。

この阿弥陀仏という仏は、世にも稀なる仏だ。覚りをめざして修行するものは星の数ほどいる。実際に覚りを開き仏となった者も、その数は知れない。だが、まったく覚りからかけ離れた人々をも、必ず道の終点まで導こう、と決意した仏はただ一人、阿弥陀仏だけだ。自分自身のことであれば、道を歩む上で最善を尽くすこともできる。だが、他人を導くこと、それもまったく仏教の素養をもたない人を導くことはこの上もなく難しい。それをなしとげた仏は、この阿弥陀仏をおいて他にはいない。わたし自身も覚りを得たが、未だ阿弥陀仏のように存在するには至っていないのだ。

...《次回に続きます》