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2010.04

 
浄土宗の開宗

浄土宗をお開きになった経緯について、法然上人が語られたお言葉が残っています。
以下にご紹介するのは、私が現代語にとらえ直したものです。皆さまのご理解の一助となれば幸いです。

「私(法然上人)は、この迷いの世界を離れ出たいという志がきわめて深かったので、さまざまな仏教の教えを学び、修行をしてきました。
仏教には多くの教えがありますが、せんじ詰めるとそれらはすべて、三つの修行におさまります。それは、まず戒律を守って清らかな暮らしをすること、次に清らかな暮らしの中で心を静める修行をすること、そして静まった心の奥底から、煩悩を断つ智慧を得ること、この三つの修行です。
しかしながら、このわが身を振り返ってみますと、戒律の一つも正しく守ることができず、心を静めることもままなりません。
ある先生が言われるには、
『戒を守り、その身を清らかに保たなければ、仏にまみえる境地など得られるものではない』
とのことです。
ところがこの私の心はどうでしょう。あたかも猿が、樹の枝の間を落ち着きなく跳び回っているようなものです。まことに静まりがたく、このようなありさまでは、静かな心から智慧を得て、悪業や煩悩のきずなを断つことなどどうしてできましょう。 
ああ、何という悲しいこと…一体どうすれば良いのでしょうか。
私ごときは、さきほどの三つの修行などとても全うできる器ではありません。
この修行のほかに、私にふさわしい教えや修行があるのだろうか─そう思って、いろいろな賢者や学者の方々のところを訪ね歩いたのですが、私に道を示してくれる先生も、助言してくれる仲間もおりません。
深く歎きつつも、私は経典を保管してある蔵にこもって、悲しみの中でお経を丁寧に読んでいました。すると、どうでしょう。あるとき、中国の善導大師がこう書かれた文章に出会ったのです。
『一心に専ら、弥陀の名号を念じ、行住坐臥に、時節の久近(くごん)を問わず、念々に捨てざるもの、これを正定の業と名づく、かの仏の願に順ずるが故に』
(こころを一つにして、もっぱら阿弥陀さまのお名前を称えなさい。常に─歩いているときも、立ち止まっているときも、また坐っているときも、横になっているときも─時間の長い短いに関わらず、いつもお念仏とともにありなさい。これを阿弥陀さまが正しく選ばれた行、かならず私たちを救いとって下さる行、そのように名付けよう。なぜなら、このお念仏こそ、阿弥陀さまのお約束にかなった行だからである)
この文に出会った私は、たいへんな衝撃を受けました。
(これだ。これこそ私が求めていたものだ。阿弥陀さまの願いに応える、このお念仏の道だけをただ進んでゆけば良いのだ。)
次の瞬間、阿弥陀さまのみ光が全身を貫くのを感じたのです。私の顔色も、以前の重く沈んだ表情から、突然明るく輝き出したに違いありません。
それ以来、私のような無智のものは、ひとえにこの善導大師の文をとうとび、この道理をたのみとしよう。常にお念仏とともにあって、極楽往生に備えよう─このように思い定めました。
それはただ、善導大師の遺された教えを信じるというばかりではありません。お念仏こそ、阿弥陀さまの大いなるお誓いにかなっているから、という道理がはっきりと理解できたからでした。
この善導大師の文は、私の魂の奥深くにまで染みわたり、心のなかにしっかりと動かぬ場所を得ることになったのです。■