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2010.07

 
私と仏教

誰しも人生を生きていれば、途方に暮れてしまうような経験を一度か二度はするでしょう。
これは以前、私自身に起こったことです。
大学3年の終わりの頃でした。当時、卒業後の進路に迷い、精神的に相当混乱していました。大学に入った頃はマスコミに進もうと決めており、自分なりに準備をしておりました。2年間ほどは大学の授業にもほとんど出ず、テレビやラジオの番組構成のお手伝いをしていました。それなりに充実した日々でしたが、やはりプロがしのぎを削る世界、いわば生き馬の目を抜くような世界ですから、学生である私にとっては誠に厳しい世界に映りました。この世界で将来も自分はやってゆけるのだろうか... ただのアルバイト、という気持ちでやってきたわけではなく、将来をこの世界にかけよう、という意気込みで取り組んでいたので、自信が揺らぎ、やがてそれを失ってゆく、というのは当時の私にとって大変な苦痛でした。
とにかく苦しい。精神的に苦しいだけでなく、実際に呼吸が息苦しい訳です。ゆったりとした、深い呼吸ができない。こんなにつらいのだったら、もう生きてゆけない、そこまで思いました。それで、あるとき自分の中でこう考えたのです。
今、自分は進路のことで苦しい思いをしている。だけど、この「自分」って一体何だ? 身体の真ん中に居座っているようなこの「自分」って一体何だろう。「自分」でいることがこんなにつらいのなら、いっそのこと「自分」でいることをやめてしまったらどうだろう。
身体を傷つけようというようなことは思いませんでしたが、精神的に自分というものをすべて放り出してしまったらどうなるだろう...。
これは、ある日の朝方のことでした。椅子に坐り、背もたれに上半身を預け、目を閉じました。心の中で、どんどん下の方に落ちてゆく自分自身がいます。高い崖の上から、下の方に、吸い込まれるように、どんどん落ちてゆく。頭の方から真っ逆さまです。どうなるのだろう、ああ、自分はこのまま死んでしまうのだろうか。そのとき、地べたに手のひらが触れました。というか、触れた感じがしたのです。へえ、心の中にも底があるのか。次の瞬間には身体が地べたに激突するのだろうなあ...これらは、すべて白昼夢のように起こっていることなのですが...。
しかし、身体が地べたにぶつかることはありませんでした。反対に、上の方に向かって吹き上げる水の激流に巻き込まれたようになりました。次にハッとしたときには、自分ははるか上の方、空に向かって高く突き出た岩の上に坐っています。身体は何ともありません。心も平安そのもので、深く満たされている。先ほどのまでの出来事がまるで嘘のようです。一体何がどうなったのか分かりませんでしたが、とにかくつい先ほどまであったつらさ、息苦しさ、落ち込んだ感じはきれいサッパリなくなっています。そして、このような気づきが湧き上がってきたのです。
「自分は今まで、色々なことを学び、自分自身のものの見方考え方を作り上げてきた。そして自分に向いた進路を選び定めようとしていた。いや、そのように思い込んできた。だが、ちょっと待て。自分自身のものなんて、一つもないじゃないか。他人様の価値観、他人様が『これが良い』『これが正しい』と言ったことや、他人が『人生かく生きるべし』と言ったことを、疑いもせずに自分自身の考え方だと思い込んできた。ただそれだけのことじゃないか。」
とこう気づいたわけです。あまりの愚かさに、笑いがこみ上げてきました。頭の周りに、むくむくと明るい輝きが広がってきました。
「何だ、馬鹿馬鹿しい。何も問題なんかないではないか。最初から何も問題がないところに、自分で勝手に問題を作り出していただけだ。」
そして周りを見渡すと、何か様子が変です。部屋の中にあるありふれたものが、以前と違っているのです。椅子、机、壁、ごみ箱... すべてのものが、生き生きと輝いて見えます。本当にまるで生き物であるように感じられるのです。
「いやこれは大変なことになってしまった。気づいてはいけないようなことに気づいてしまったのではないだろうか。開けてはいけない扉を開いてしまったのではないだろうか」と思いました。
それからしばらくは、言葉がうまく出なくなりました。本当に無口になり、何か言葉を言うと、言った端からそれが嘘に聴こえてしまうのです。「僕は...」と言いかけると、(今、僕、という言葉が聴こえたけど、「僕」って何だ? 「僕」と言うことに意味があるのか?)という思いがすぐに追っかけて起こる、という具合です。「明日は大学に行く」と言っても、何か自分とは関係のない、人ごとのように聴こえる。「明日」という言葉も「大学」も「行く」というのも、何と遠く虚ろに響くことか。たった今、自分の口から出た言葉なのに。
このような状態が3ヶ月くらい続きました。自分で話すことが難しいくらいですから、勉強なんてさっぱりダメです。特に困ったのは、「自分の考えを述べよ」というような問いかけです。「そんなものありません」と書く訳にはいきませんから。
一方、音楽を聴いたり、映画を観たりというのは大丈夫でした。自分では、これは病気ではない、と思っていましたが、まったく普通ではない。
その頃から、仏教の本を読み始めます。
そうすると、どんどん自分の中に仏教の言葉が入ってくる。理解できるような気がするわけです。たとえば重々無尽縁起、という説がありまして、すべてのものごとはお互いに重なり合って、相互に尽きることなく関わり合っている、という考えです。それはわざわざ言うまでもなく当たり前のことだなあ、とスッと理解できる。諸行無常、諸法無我、といえば、そうだなあ、すべてはお互いに複雑に関わり合いながら、大きな河のように流れてゆくなあ、そこには自分なんて本当には無いんだなあ。ああ全くその通りだ、と理解できる。「色即是空」ああ、その通りだ。
これは、自分の状態は「覚り」というのとは違うが(怒りや欲望がまったく消えてしまった訳ではありませんでした)、仏教の世界をチラリと垣間みた、というふうには少なくとも言えそうだ。自分を導いてくれる世界、頼りにできる世界観がここにはある...これが21歳のときです。
そのときにこう思いました。
「たまたま日本という国に生まれ、平和な時代を生きている。書物を通して仏教の教えに触れることができた。何と幸せなことか。もし仏教に触れることがなければ、多分、自分はあのときの奇妙な体験に閉じ込められて、出口が見つからなかったかも知れない。全く使いものにならない、そんな人間になっていたかも知れない。仏教に触れることができて何と有り難いことか。」
と、このように思ったわけです。
学生時代にこういうことがありまして、仏教との確かな出会いを経験しました。その後就職しますが、仏門に身を置きたい、という思いは底流のように続いておりまして、30歳を過ぎてから結局、この世界に入れて頂くことになりました。
既にそれからも大分月日が経ち、人様に偉そうなことを申し上げるようにもなりましたが、私の仏教体験の原点は、あの21歳のときのできごと、正に言葉を失ってしまうような、あの体験にあります。■