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2011.07

 
日常生活での仏教修行 (3)

諸行無常、諸法無我という教えを、生活の中の瞑想修行として取り上げて参りました。
「仏教は無常、無我を説く」
と頭の中で知っただけでは、何も知らないのと同じこと。
流れゆく一人一人の人生経験の中で、その知識を身体的、心的に深めてゆくことが大切なのです。

三法印の最後「涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)」は、涅槃の境地─煩悩の炎が消えればそこには静かな安らぎがある、という意味です。
理想の境地、仏道の終点です。

「炎が消える」と言いましたが、
そこは明かりの消えた暗闇の世界ではありません。
「覚りの光明が、あまりにまばゆく輝きわたっているので、
煩悩の小さな炎は覚りの大光明に飲み込まれてしまう」
ということなのです。

「仏ははかりしれない力で大いなる光を放ち、
果てしない国土までくまなく照らす
三つの垢(貪り、怒り、愚かさという三大煩悩)の闇を取り除き、
多くの厄難に苦しむ者を救う」
(「神力演大光 普照無際土 消除三垢冥 広済衆厄難」─『無量寿経』)」

とはいえ実際のこととして、「大光明」に出会うことは中々かないません。
無常、無我を観じてある程度の洞察までは進むことが出来ます。
が、いくら無常無我に心を留めていても、
「大光明」に照らされて
「怒り」が全く起こらなくなったり、
「思い煩う」ことがなくなったり、
「欲望」が消えたりというところまでは中々参りません。
私自身も同じです。
生身の身体を持っている凡人、おのずと限界があるものです。

ここで重要になってくるのが「信」です。
「大光明」である仏、無常無我を完全に覚れる仏、この上なく聖なるお方である仏を自分の外側に見て、かのお方を礼拝いたします。
「大光明」の世界が実在すると信じて、その世界に触れさせて頂きたい、触れさせて頂けると念じてみ仏に手を合わせるということ。

無常、無我の瞑想だけでは、私たちは頼りとするものを持つことが出来ません。またひとたび瞑想の外に出ますと、日常生活の中では突然思いもかけぬことが起こります。
み仏に帰依し手を合わせることは、揺れ動く私たちの心をあらゆる局面で支えてくれるのです。

私ども浄土宗では「阿弥陀仏」という仏さまに手を合わせ、「なむあみだぶつ」と称えます。
頭を垂れて、この私、無常無我を覚りきれない私、煩悩のただ中にあるつたない私を、み仏に明け渡します。

無常、無我を観じつつ、縁ある仏さまに心から手を合わせることができれば、
そこに人生の真の安心を見いだすことができるでしょう。

日常生活での仏教修行─今回は「信」を取り上げました。
(三法印の項目はこれで終わります。)■