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2011.11

 
法然上人のお言葉 (3)

浄土宗を開かれた法然上人は、まことに稀有な宗教家です。
永遠のテーマともいえる対立─聖と俗、仏と凡夫、覚りと迷い、天と地、彼岸と此岸─表現はさまざまですが、この対立する二つの世界を、ただの「なむあみだぶつ」だけでいとも簡単に橋渡しされたのです。
このような教えは他に類を見ません。
上人の教えを学ぶには、やはり原典にあたるのが一番。やや難しいところもありますが、声に出して、繰り返し読んでみて下さい。
上人の息づかい、リズムを感じる事ができるでしょう。

或る人、「上人の申させ給う御念仏は、念々ごとに仏のみ心にかない候うらん」など申しけるを、「いかなれば」と上人返し問われければ、
「智者にておわしませば、名号(みょうごう)の功徳をも詳しく知ろしめし、本願の様(さま)をも明らかに御心得あるゆえに」と申しけるとき、
「汝、本願を信ずる事、まだしかりけり。弥陀如来の本願の名号は、木こり、草刈り、菜摘み、水汲む類(たぐ)いごときの者の、内外(ないげ)ともにかけて一文不通(いちもんふつう)なるが、称うれば必ず生まると信じて、真実に願いて、常に念仏申すを最上の機とす。
もし智慧をもちて生死(しょうじ)を離るべくば、源空いかでかかの聖道門(しょうどうもん)を捨てて、この浄土門に趣くべきや。聖道門の修行は智慧を極めて生死を離れ、浄土門の修行は、愚痴に還りて極楽に生まると知るべし」とぞ仰せられける。


(私訳) ある人がこう言いました。
「法然上人のお称えになるお念仏は、一念一念が阿弥陀仏のみ心にかなっていることでございましょう。」
「なぜそう思うのかね。」
上人は問い返されました。
「上人は智慧の人であられるので、お念仏の功徳も詳しくご存知ですし、阿弥陀仏の本願についても明らかに理解しておられるからです。」
このとき上人は、
「そなたの本願への信仰は、まだまだ未熟だ――
阿弥陀如来の本願である念仏は、たとえば木こりを生業とする者や、草を刈ったり、野菜を摘んだり、水汲みをするような人たち─仏典を読んだ事がない、一般の書物にも目を通した事がない、というような人々が対象なのだ。こういう人たちが、念仏を称えれば必ず浄土に生まれると信じ、心からそう願って常に念仏する、それこそがこの教えに最高にかなっているのだ。
わたしも同じ─もし自分の智慧によって生死流転の世界から抜け出せるのであれば、この源空(法然上人ご自身)がどうして聖道門(しょうどうもん)を捨てて浄土門に帰依するということがあるだろうか。
聖道門の修行は、智慧を極めて生死を解脱する道。浄土門の修行は、愚かな自分に立ち返って極楽に生まれる道。このように理解しなさい。」
こうおっしゃったのです。

仏道とは、覚りを開くための道です。
しかし自分の努力によって、お釈迦さまと同じ境地に至ることができるのでしょうか。この私が? 本当に?
よくよくわが身を振り返ってみるならば、法然上人が示して下さるお念仏の道が、もっとも現実的で自然であるように思われます。

彼の人の開き給ひしこの道は 我も往き得る易き道なり■