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2012.02

 
ご質問を頂きました

「お釈迦さまは、人間の死後について『無記』とされていると聞いたことがあります。まだ阿弥陀経などの原典(原語)はまだ見つかっていないとも聞いています。
私は54歳です。拙い人生ですが私は毎日お念仏を称え、『祈り』と阿弥陀さまに『お任せ』することで救われています。
私は自分の無明を自覚し、み仏のお導きを頂いていることは十二分に感じています。また自然や命へのみ仏のはたらきも自覚しています。
しかし、『深信』は修行不足でまだまだ授かっておりません。西洋の思想に基づいた教育を受けてきたことが原因だと思います。
そこでご質問します。
お釈迦さまが無記とした『死後』について、阿弥陀さまの存在を実感するにはどのよう考えてゆけばよいでしょうか。」

重要なご質問です。いくつかの視点から考えてみましょう。
今日私たちは、わが国に伝統的に伝えられてきた大乗仏教各宗派のほか、初期仏教やチベット仏教の教えに接することができます。過去においてあまり視野に入ってこなかったこれらの教えが書籍として出版され、書店の棚にもたくさん並んでいます。
それらを読んでみると、たいへん興味深く、また学ぶところ大なるものがあります。
こうした状況の下で、浄土教を仏教史の流れの中でどう捉えるか、ということは大きな課題だと思います。

◇    ◇    ◇

さて、ご質問です。
「お釈迦さまは、人間の死後について『無記』とされていると聞いたことがあります。」
――「無記」とは『箭喩経(せんゆきょう)』に説かれる教えです。
一人の弟子が、お釈迦さまにさまざまな質問をします。
「この世界は永遠にあるのか、やがて滅びるのか。」
「この世界は有限であるのか、無限であるのか。」
「霊魂と身体は同一なのか、別々なのか。」
「如来は死後も存在するのか、しないのか。」
これらの疑問にお釈迦さまが答えて下さるなら、私は修行を続けましょう、もし答えて下さらないなら、修行を捨てて還俗しましょう、弟子はこのように言い、お釈迦さまに迫ります。
お釈迦さまは、
「それらに答えを与えたとしても、生老病死の苦しみがなくなるわけではない。
わたしはそれらには答えない。なぜか。それらに答えることは、苦の生滅、すぐれた智慧、涅槃への到達のために役立たないからである。」
と答え、これらの哲学的問題に結論を下すことを退けられます。そして、
「それらについては説かない。わたしの説いたことを受持せよ」
と、四諦(仏教の基本である四つの真理)の教えを繰り返されました。
概略ですが、これが『箭喩経(せんゆきょう)』の内容です。

しかしこの教えをもって、「お釈迦さまは本当は阿弥陀仏や極楽往生のことは説かれなかった」とするのはいささか早計に思います。この教えはあくまで応病与薬、『箭喩経』が説かれた状況においての教えとみたほうがよいでしょう。この弟子が、あさっての方向の哲学的問題で頭を一杯にしているのを見かねたお釈迦さまが、彼と同じ「頭でっかち」の土俵にのることを避けて、今ここにおける身体的感覚、目の前の修行に焦点を戻すことを促したのではないかと思われます。そこで、身体感覚を想起させる「毒矢のたとえ」を引かれたのではないでしょうか。
初期経典はこのように、
- 戒律を保って、執着なき清らかな生活を送れ。
- 心の集中と安定を修め、無常無我をよく観察し、慈悲心を培え。
- 過去や未来を思い煩うことなく、今ここにおいて真理を見据えよ。
というような、今現在に焦点を当てる教えが中心となっています。が、中には輪廻転生やそこからの解脱に言及しているものもあります。
「正しい真理の教えを知らない愚者たちにとって、輪廻は長い」(『ダンマパダ』60)
「罪過を罪過と知り、罪過なきを罪過なしと知る人々は、正しい見解を持つ。彼らは神々の棲む良き世界へ赴く。」(同319)
「煩悩がいかなる原因にもとづいて起こるかを知る人々は、煩悩を除き去る。彼らは、この渡り難く、未だかつて渡った人のない激流を渡り、もはや再び生存を受けることがない。」(『スッタニパータ』273)

従って、『箭喩経』のみに基づいて「お釈迦さまは死後の世界については説かれなかった」「ゆえに浄土の教えは本来のお釈迦さまの教えではない」と考える必要はないと思います。

◇    ◇    ◇

次に、大乗仏教の興起の問題です。
お釈迦さまが亡くなられたあとの教団は、お釈迦さまの教えが散失しないようにそれをまとめあげ、修行を続けてゆきました。
その後、根本分裂といわれる変革期がやってきます。
ある人々は、お釈迦さまの教えを忠実に守り、実践と思索を深めてゆきます。しかし時代の流れとともに、それだけでは満足できない人たちが出てくる。進歩派ともいえる彼らにとっては、お釈迦さまの教えをただなぞるだけでは、何かが違う、何かが欠けている─教団のやり方は今を生きる私たちを導いてくれるものではない、と思われてきます。そうだ、我々が一番求めているのは、教えの枝葉末節をなぞることではなく、生身のお釈迦さまその人だ。
生身のお釈迦さまと、それを取り囲む弟子たち。響き流れる教えの声─まさに三宝です。このお釈迦さまのご説法の場、自分は何ゆえそこにいることができなかったのだろう。過ぎ去ってしまった時代のこと、今となっては詮無きこととはいえ、この無念、悔しさ。あるいは何とかして、今からでもその場にいられないだろうか、という熱望。
こうした熱い信仰と、生と死をまたぐほどの深い瞑想…ここから大乗仏教が生まれました。
大乗の舟は、「空(くう)」で出来ています。一切が空、というわけですから何も恐れるものはありません。ここから壮麗な宇宙観も生まれてきます。一切所に遍く満ちた仏法僧、無数の菩薩たち、この世のものとは思われぬ美と善に満ち満ちた仏国土…。
舟の帆を支える柱は二本です。
一つは、「仏の命は永遠である。」
歴史上のお釈迦さまは亡くなられたが、そのお覚りも、その徳も何一つ失われていない。仏は今現在生きておられる。未来永劫にわたるまで、私たちを救い導いて下さる。
いま一つの柱は、「誰でも救われる。」
どんな人にも覚りの種=仏性が具わっている。この種は、今は煩悩に覆われていて、発現していないかもしれないが、いつの日か必ず芽をふき、葉を茂らせ、花を咲かせるであろう。
「空(くう)」という本体から成り、「仏の命は永遠である」「誰でも救われる」という二本の柱に帆を張った大乗の舟が水路を進みます。そしてさらに大きな船団(経典の集まり)となり、無数の人々を乗せ、彼岸に導いてきました。この壮大な教えのおかげで、仏教はローカルな教えから世界宗教へと広がってゆきます。
前置きが長くなりましたが、その船団の最先端に位置する(究竟大乗)のが、私たちの浄土宗です。さきほど「生身の釈尊が教えを説かれた、その聞法の場への追慕の念から大乗仏教が生まれた」と申しました。一方でこの世を見渡すと、ここは仏の国とは到底呼べぬ、苦しみと悲哀に満ちた世界です。仏教徒を自認するわれわれとて、自我への執着を手放すことは容易ではない。とてもこの場所を三宝の場、私たちの家とすることはできぬ。別の世界に聞法の場を設けよう。そこには、あのお釈迦さまを取り囲む聞法の場と真直ぐにつながった、否それ以上に快適で素晴らしい聞法の場がある。これが阿弥陀仏の「極楽浄土」ではないでしょうか。
今ここに書いたように、大乗仏教の先覚者たちが極楽浄土を創出した、とも言えますし、あるいは彼らが深い瞑想の中で極楽浄土を実際に体験し、その体験を書き留めたのかも知れません。
どちらが先かは分かりませんが、いずれにしてもお念仏を通じてお釈迦さまの聞法の場に通じ、大乗の先覚者たちの瞑想世界に通じ、そして阿弥陀仏の聞法の場に通ずることができるのです。
(やがて「本来あるところの阿弥陀さまの救いの力が、生身のお釈迦さまを通じて教えを説かれた。」というふうに考えられてゆきます。一種の逆転が起こるわけです。ここでは、「お釈迦さまがこの世にお出ましになられたのは、阿弥陀仏の救いを説くために他ならない。」というようになって参ります。)

『箭喩経』の場面では「無記」を説かれましたが、上述のような仏教の流れを仮にお釈迦さまがご覧になられたら、「善き哉、善き哉」とおっしゃられるのではないでしょうか。恐れ多きことではありますが、私はそのように思っております。

◇    ◇    ◇

以上は、仏教の略史の中に浄土教を位置づけてそこに信頼を寄せる、という試論でした。
もうひとつ「深信」を助けてくれるのは、やはり法然上人を学ぶことです。

「よきひと(法然上人)の仰せをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり」

という親鸞聖人のお言葉は有名です。法然上人の圧倒的なご人格に触れる機会をお持ちになれれば、「疑い」も変じてゆくに相違ありません。昨年は八百年御忌にあたり、関連の書物もたくさん出版されました。法然上人のみ心を今一度学んでみて下さい。

最後に、イメージを使う方法をご紹介しましょう。

疑いの心ここにあり、と思われているならば、その疑いの心を仏前に捧げます。「疑いを抱いている私、この疑いの心を私の真実として捧げます。なむあみだぶつ」というふうに、心を開いて疑心を差し出します。

「信心浅くとも、本願深きがゆえに、頼めば必ず往生す。」(恵信僧都)
信心浅くとも、それもまた良し、です。

おしまいに、浄土三部経(浄土宗がよりどころとする経典)について補足します。
『阿弥陀経』と『無量寿経』については、サンスクリット原典があり、岩波文庫等でその和訳を読むことができます。『観無量寿経』については現存するものが漢訳のみで、中国か西域で編纂されたのではないか、という説があることを申し添えておきます。◆