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2012.07

 
育てて頂く

今年もお盆の季節になりました。

私の師僧である源譽芳清上人は、9年前のお盆のお参りの頃から体調を崩されました。やがて病床につかれ、翌年春にお浄土へと旅立たれます。
その年の前年まで、私は師僧の寺の棚経(たなぎょう=お盆のお参り)を毎年お手伝いしておりました。林海庵が忙しくなってきたので、「今年はお手伝いできません」とお断りしていたのでした。やむを得ないこととはいえ、例年よりも多くのお檀家を廻られる師僧の負担が一段と重かったのでは、と今でも申し訳なく思っております。

私はいわゆる在家出身でありまして、師僧の寺―東京中野区にある貞源寺の一檀家でした。平成3年の秋、思うところあって当時住職であられた芳清上人に弟子入りを志願いたしました。
上人は、
「笠原君。僧侶になるよりも、学校の教師になって若い人たちに宗教教育を施すことを考えたらどうだろうか。人間、年を取ってから学ぶのは難しいからね。宗教も同じだと思う。今、若い世代への宗教教育が大切なんだ。」
と言われました。
振り返りますと、当時上人は40歳過ぎ。熱意にあふれていましたが、それだけに伝統仏教寺院における教化活動の難しさを実感しておられたのでしょう。成人からではもう遅い。若い人たち、まだ頭の柔らかい人たちに宗教を説きなさい…。オウム真理教の事件の少し前のことであり、時代の空気を敏感に感じておられたのかもしれません。
しかし私は学校に勤めるのではなく、僧侶として生きてゆきたいと思っておりましたので、「そこを何とか」と重ねて無理をお願いし、入門を許して頂きました。
法然上人の教えに惹かれて浄土門に入れて頂いた私は、学べば学ぶほど、また経験を積めば積むほどにその教えの素晴らしさを実感することになりました。 僧侶も檀信徒も一つとなってお念仏の声の中に浸る…そこには優劣なく、余分なはからいもいりません。
「智者のふるまいをせずして、ただ一向に念仏すべし」
という法然上人の一枚起請文。日々拝読するたびに、「獅子吼」というのはこのことか、と唸らずにはいられません。
他にも多くのことを師僧の元で学ばせて頂きました。
あるとき師僧がこう言われます。
「寺の住職は、檀信徒が育ててくれるものだ。」
そのときは何のことかよく分かりませんでした。住職―僧職の立場にある者が、みずから学んだこと、修行から得たことを檀信徒に伝え、檀信徒を導いてゆく、そのように思っておりました。檀家が御布施を納めた上に住職を育てるですって? それが最近、「ははあ、このことを言われていたのかな」と思うようになりました。
林海庵は、宗門の開教施策のもとに開かれた新しい寺院です。以前は賃貸の施設で活動しておりました。そのときのこと―「いつの日か、たとえ小さくとも独立した建物、お寺が建つといいのですが…」という話を信徒さん達としておりました。するとある人が、「そうですねえ、それは夢だわ。でも私が生きている間はとても無理でしょうね…」と言われたのです。当時の状況としてはまったくその通り―土地建物を入手することなど夢のまた夢だったのですが、この嘆息は私の胸に深く刻まれました。それからほどなく、寺院にふさわしい良い場所が見つかりました。とても不可能と思われた資金のめども立って、状況が一気に動き始めました。
先の信徒さんのひと言が、私を後押ししてくれたのです。
寺の行事についてもそうです。「写経会をやりましょう」「ぜひ花まつりを」という信徒の皆さんの声が後押しとなって実現し…否、そうした声の後ろから私が「ちょっと待って下さい」と、ふうふう肩で息をしながらついて行っている、というのが実態です。これが師僧の言う「檀信徒に育てて頂く」ということなのでしょうか。
師僧はまた、古典芸能をこよなく愛しました。能、歌舞伎から地唄舞、尺八、薩摩琵琶、落語…そのいくつかは、演者を招いて貞源寺の本堂で上演奉納され、私も間近に観る経験を得ました。
「平家物語を理解しなければ、法然上人の宗教が分かったとは言えないよ。」
師僧の口癖でした。
今NHKの大河ドラマで「平清盛」が放映されております。確かにかの激動の時代、極楽浄土への願いが理屈を超えて人々の心の深層に広がっていったのでしょう。今日では武器を用いた命のやり取りこそなくなりましたが、激動の時代であることには間違いありません。法然上人の教えは未だ色褪せていないどころか、益々その意義を深めています。

「ほう、少しは分かってきたようだね。」
師僧は言われるでしょうか。
いや、
「分かったつもりになっているようだが、笠原君もまだまだダメだな。」
こちらのほうが師僧らしい言葉です。◆

(東京教区のホームページに掲載した文章に一部加筆しました)

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