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2012.09

 
仏教の説く苦しみは…

秋彼岸を迎える季節になりました。

さて、仏教の説く苦しみはお念仏の教えで解決できるのでしょうか。
「四諦―四つの聖なる真理」の教えによれば、お釈迦さまは最初にこう説かれます。

「修行者たちよ、これが苦という聖なる真理である。
すなわち、この世に生まれ出ることは苦である。
老いることは苦である。
病も苦であり、死も苦である。
愛しく思わない者と会うのは苦であり、愛する者と別れるもの苦である。
欲するものを得ざるは苦であり、総じて心身の活動はみな苦に帰する。」

これがいわゆる四苦、八苦です。(ちなみに「葬式仏教」という言葉で批判されることの多い日本仏教ですが、寺院・僧侶は人々にとって避けることのできない「愛別離苦」に深く取り組んでいる、といえましょう。グリーフワークという観点からみると、伝統仏教が果たしてきた役割は誠に大きなものがあります)

続いて、これら苦しみの生まれる原因と、その解決が説かれます。

「苦は渇愛より生ずる。」
「渇愛を離れることによって、苦を滅して解脱することができる。」
「そのための方法が、八正道である。」

という三つの聖なる真理です。
では解脱のための方法=八正道とは何か。その第一は「正しい見解」です。
私は以前、これは同語反復ではないか、と疑問を感じました。
つまり、「正しい見解」は覚りを得たあとでなければ得られないわけですから、要するに「覚りを得て苦を克服する方法―それは、覚りを得て正しい生活をすることである」と言っているのと同じではないか。
その後もこの八正道について、私は明解な答えを得ておりません。以下は想像です。

  • お釈迦さまは、覚りの眼から眺めた世界を説かれたのであろう。
  • 私たちは凡夫の視点しか持ち得ないので、いくらお釈迦さまの教えを学んでも、お釈迦さまが眺めておられる世界がそのまま見えるわけではない。
  • いにしえの仏弟子たちは、現代に生きる私たちよりもはるかに素朴で信仰篤かった。お釈迦さまの圧倒的な存在感のもと、師が眺めておられる覚りの世界の話を少し聴いただけで、大きな衝撃を受けたに違いない。その衝撃がきっかけとなって覚りを得る者も多かったであろう。

ゆえに、こんにち「四諦八正道」の教えを文句だけ眺めたとしても得るところに限りがあり、言葉を超えた部分の方がはるかに重要なのではないか。そのように思えるのです。

さて、お念仏の教えです。
上の「苦という聖なる真理」に照らし合わせてみましょう。まず、
◇「この世に生まれ出ることは苦である」
果てしない輪廻転生の渦に巻き込まれながら、またこの苦しみの世界に還って来てしまった―そう考えれば確かに苦です。しかし、今生においてお念仏の教えに出会うことができた、これでやっと輪廻転生から自由になれる、とすればこれもまたこの世に生まれ出たおかげ。ここに至って、生まれ出た苦しみが、大いなる歓びに転じます。

受けがたき人身を受けて、遇いがたき本願に遇いて、おこし難き道心をおこして、離れがたき輪廻の里を離れて、生まれがたき浄土に往生せんこと、悦びの中の悦びなり。
―法然上人

かみしめるべき御法語です。
次は、
◇「老いることは苦である」
◇「病は苦である」
老いも病も世の常とはいえ、ただ独り堪えねばならぬつらいもの、この苦しみは当人にしか分からぬ―確かにそうかもしれません。しかしその土台に、やがては仏の救いにあずかれるという確信があれば、老いも病も浄土への船旅の一風景と受け取れるのではないでしょうか。それは下降ではなく上昇の道であり、束縛からの自由に向かう旅なのです。

ちとせふる 小松のもとを すみかにて 無量寿仏の 迎えをぞまつ
―法然上人

古木「小松」の下(法然上人の住まわれた小松殿)を住処として、阿弥陀仏のお迎えを待つといたしましょう、という御歌です。
◇「死ぬことは苦である」
みたび法然上人のお言葉です。

生けらば念仏の功つもり、死なば浄土に参りなん。
とてもかくてもこの身には、思いわづらふことぞなきと思いぬれば、
死生(ししょう)ともにわづらひなし。

命ある間は、日々お念仏を称えてその功徳を重ねさせて頂きましょう。やがてこの身の命が尽きる日が参りましょうが、そのときはこのお念仏のおかげをもって必ずや極楽浄土にお導き頂きましょう。
いずれにしましても、この身には思い悩むことはございません。死ぬことも生きることも、ともに煩いはないのです。

ここに、生老病死の苦しみから解放された境地が見えます。
愛別離苦についても、法然上人はこう言われます。

浄土の再会、甚だ近きにあり。今の別れは暫くの悲しみ、春の夜の夢のごとし。

この世の出会いをかりそめのものと考えるのではありません。この世の別れの方をかりそめのものと考えるのです。浄土の再会、甚だ近きにあり―あたかも愛執を肯定するかのようなぎりぎりの線で、仏の世界に導いてくれる道…それがお念仏です。
怨憎会苦、求不得苦もしかり、浄土往生に焦点を合わせれば、絶望するほどの苦痛にはなりません。生きておりますと色々なことがありますが、まず浄土往生にしっかりと心を定め、そこを足場としてこの人生を眺めてみるならば、たいていのことは何とか乗り切れる。四苦八苦を克服する、とまではゆかぬかも知れませんが、何とか付き合ってゆける。
このようにお念仏は、「八正道」に正面から取り組む道ではありません。しかしながら仏教の根本課題である「苦」を理解し、そこによく寄り添う教えである―私にはそう思えるのです。◆