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2012.11

 
閉塞感

何となく「閉塞感」を感じながら生きている人が多いのではないでしょうか。
豊かな時代になり、ものごとの選択肢は広がりました。
「さあ、今日の夕食は何にしようか」…
和食はもとより中華、韓国料理、イタリア料理、インド料理、タイ料理…家の近くのマーケットでもこれらの料理や素材が簡単に手に入るようになりました。何か欲しいものがあれば、インターネットで自由に探す事ができる。生活の外側…衣食住や趣味といった面では私たちは自由を謳歌しています。しかし、内面はどうでしょうか。落ち着きをなくし、せわしなさや不安、強迫観念に圧倒されていないでしょうか。すべてにスピードが要求され、仕事に忙しく、遊びに忙しく、生活に忙しく、休むのに忙しく、眠るのに忙しい(?)。
欲しいものが手に入る、というたいへん恵まれた自由でさえも、「良いものを手に入れなければ」「少しでも安く」「早く」という強迫観念に転じてしまいます。外側の生活が豊かで自由であればあるほど、内側の生活(心)に閉塞感やあせり、不安が満ちてくる―まったく逆説的です。
では、この心を自由な空間に解き放ってくれるもの…それは一体何でしょうか。

ここで「時間」の話をしましょう。
私たちの時間には二つの次元があります。一つは過去から未来に向かって延びている直線。時間のもう一つの次元は、この直線と垂直に交わっています。現在、という一点をとると、過去から未来に向かって行く水平方向の線上の通過点が現在。そしてもう一つの次元は、現在において垂直方向に伸びています。現在という瞬間における高みと深み、それがもう一つの次元です。水平方向の時間に生きているだけでは、日々の閉塞感から逃れることはできません。過去の辛い経験にとらわれ、未来に希望や不安を抱きながら、心ここにあらず―落ち着きのない動作を繰り返します。意味のない娯楽に時を費やしても、それは一時的な慰めにしかなりません。
一方、垂直方向の時間には、無限性が宿っています。この次元では時の長短が意味を失う、といってもよいでしょう。今この瞬間という一点に無限の高み、無限の深みが開けています。
ふと路傍の花の美しさを感じたとき、子どもたちの遊ぶ声を聞いたとき、川面に反射する陽の光が目にとびこんだとき、夜空を見上げて天の彼方に思いを馳せるとき…私たちはこの垂直なる無限性の中にすべりこんでゆきます。
その無限性におのれの「凡夫」性を明け渡すことができるか…それが浄土信仰の要といえます。
南無阿弥陀仏―お念仏を称えているとき、私たちはこの垂直の次元と触れ合う事ができます。実際に浄土に往生するのは臨終のとき、つまり水平方向の時間軸上に位置づけられますが、お念仏を称えているのは今ここ、阿弥陀仏にすべてを委ねる心は今この瞬間にはたらいているのです。
そして自らの力をもって垂直の次元を切り開いてゆくのではなく、他力、つまり「無限性」の方から私たちを包んでくれる―それがこの教えの独自性であり、偉大なるところです。
心開いてお念仏を称えるそのとき、時代の閉塞感は消え去ってゆきます。その閉塞感は、実は水平方向の時間軸の中で私たちが勝手に造り上げた幻想だった、と気づくのです。

「阿弥陀仏と 心は西に うつせみの
もぬけはてたる 声ぞすずしき」 (法然上人)◆