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2013.08

 
法然上人のお言葉 (4)
法然上人のお言葉 (1)
法然上人のお言葉 (2)
法然上人のお言葉 (3)

毎月の行事「お念仏の会」では、おりにふれて法然上人のご法語を拝読しています。皆さんとご一緒に大きな声で唱和し、解説を加えながらさらに二たび、三たびと音読します。
目で文章を追い、声に出して唱え、その声がまた耳から入ってくる。身体で読む─この繰り返しが大切です。
今月のコラムではご法語の第四を取り上げましょう。

念仏往生の誓願は、平等の慈悲に住しておこしたまいたる事なれば、人を嫌う事は候わぬなり。仏のみ心は、慈悲をもて体(たい)とする事にて候うなり。されば『観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)』には、「仏心というは、大慈悲これなり」と説かれて候。
善導和尚(ぜんどうかしょう)、この文を受けて、「この平等の慈悲をもては、普(あまね)く一切を摂す」と釈したまえり。「一切」の言(ごん)、広くして漏るる人候うべからず。されば念仏往生の願は、これ弥陀如来の本地(ほんじ)の誓願なり。余(よ)の種々の行は、本地の誓いにあらず。
釈迦も世に出でたまう事は、弥陀の本願を説かんとおぼしめすみ心にて候えども、衆生の機縁に随いたまう日は、余の種々の行をも説きたまうは、これ随機の法なり。仏の自らのみ心の底には候わず。
されば念仏は、弥陀にも利生(りしょう)の本願、釈迦にも出世の本懐なり。余の種々の行には似ず候うなり。

(私訳)
阿弥陀仏の誓願―「わが名を呼べ、そうすれば必ずわが極楽世界に救いとろう」という約束は、誰に対しても変わらぬ慈悲心から出たものだ。だから、この人は救うがあの人は除く、という事はない。仏のみ心とは、慈悲そのものである。『観無量寿経』に「仏心とは大慈悲これなり」と説かれている通りだ。
中国の善導和尚はこの経文について、
「阿弥陀仏は、この平等の慈悲心をもって、あまねく一切の人びとを救いとる」
と解説している。「一切」という言葉はまことに広い意味であって、この救いにもれる人のいようはずがない。この念仏往生の誓願は、阿弥陀仏が未だ仏になられる前、菩薩であったころの誓いであって、その他の瞑想や礼拝などの修行は、当時の誓いではない。
釈尊がこの世に出られたのも、阿弥陀仏の念仏往生の願を説こうと思うお心からだ。人びとの能力や状況に合わせては、念仏以外のさまざまな修行も説かれた。だがこれはあくまで人びとの能力に応じて説かれた教えであり、釈尊ご自身の本心ではない。
ゆえに念仏は、阿弥陀仏にとっては人びとを救う約束、釈尊にとっては世に出られた本懐である。他の様々な修行とは違うのである。


念仏往生とは、阿弥陀仏と釈尊がわたしたちを相等しく救う為に切り開いて下さった道―このことが重ねて説かれます。
「この道を進めば仏の世界にたどり着くであろう」という教えは種々ありますが、浄土宗の場合は私が自力で険しい道を登って行くのではなく、「阿弥陀仏みずから私を迎えに来て下さる」―ゆえに、「仏心とは大慈悲これなり」です。

法然上人は、ご自身のお念仏の合間にこうした教えを説かれました。そのことを思い起し、お念仏の合間にご法語を味わうのが良いでしょう。
理屈よりもまずは実践です。

極楽に 往くと決まりしこの身には 苦楽あれども楽のうちなり◆