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2014.06

 
「不在」ということ

身近な人が亡くなると、いわば胸にポッカリと穴が空きます。
ポッカリ穴が空く、というのは一般的な表現でして、人によってそれぞれの実感、また(言葉にできる場合は)それぞれの実感表現があることでしょう。ここではそれらをまとめてポッカリ穴=「不在」と現代的に表現してみましょう。
ある家族の中の一人が亡くなったとします。家族のメンバーは、それぞれ心の中で故人の「不在」を感じます。家族の各々が、各々の刻々と動く心の中に「不在」を感じます。その「不在」像は家族のメンバー皆に共通する部分もあれば、また各々で異なっている部分もあることでしょう。感じられる「不在」の形や大きさは、家族の成員によって微妙に異なるはずです。
特定の場を設けて、家族(親族や友人知人)が集まり各々の「不在」を持ちよります。それが追善法要という宗教空間です。
「不在」は戒名という呼び名を得ることによって、また位牌という形式をもつことによって「実在」へと変容します。戒名を受けて「不在」は「実在」となり、垂直の次元を昇ってゆくことが可能になるのです。仏弟子となり仏に導かれる、とは、「不在」が「実在」となって高みに昇ってゆくことを意味します。

私たちは日常の世界に生きています。この日常空間では「身体」の存在が前提ですので、衣・食・住の確保が第一の関心事になります。しかし、私たちが身体を失ったあとも何らかの自己意識が続いてゆくとすれば、その自己意識、自己感覚の関心事は衣食住ではあり得ません。なぜなら身体が存在しない今となっては、衣食住も、また財産も意味を失うからです。性別も意味を失います。国籍も、国境も意味を失います。そこでは愛に触れること、無私の愛に満たされることが第一の関心事になるでしょう。
そのような「他者への愛」に生きる実在と私たちがつながりをもつためには、私たちの心のうちにある「不在」をもちよる場を設け、個々人の胸のうちにある不在を集めてそこに「実在」性をもたせ、さらにその実在に聖性を与えなければなりません。
仏事を営むことの意味はそこにあります。死=不在を実在に変容させ、その実在に聖性を与えてさらに高く聖化してゆく営み…それがいわゆる仏事です。
仏教離れということが言われますが、私の見るところでは、僧侶の読経を中心に営まれる仏事以外に、この「不在」を実在化させ、さらに聖化させてゆく有効な手段はないと思います。お別れの会、偲ぶ会を開けば「不在」の共有まではできるでしょうが…。
読むお経は同じでも、葬儀や法事は一件一件まったく別のもの…私たち僧侶は皆そのように感じています。それはなぜか。この「不在」が故人特有のもの、そのご家族特有のものだからです。
「不在」―それは悲しみという高貴な感情を伴います。そしてその「不在」が「実在」となって聖なる高みに昇ってゆくとき、私たちもその実在に導かれ、聖なる世界を垣間みることができるのです。

「不在」とどう向き合うか―それは亡き方を心に抱きながらどう生きてゆくか、すなわち亡き方とともにどう生きてゆくか、ということに他なりません。◆