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2014.10

 
ご質問を頂きました

「悪い行ないをした人は罰せられるべきです。浄土宗のように、罪人でも『南無阿弥陀仏』と称えれば極楽浄土に生まれるというのはおかしいのではないでしょうか。憎しみが昂じて人を殺したとしても、後で「南無阿弥陀仏」と称えれば極楽浄土に生まれることができるのでしょうか。
また私は統合失調症で働くことができません。こんな人生なら『南無阿弥陀仏』と称えて自死の道を選んでも良いのでしょうか?」――

阿弥陀仏の本願力を信じてお念仏を称えれば、誰でも往生できます。
では、それを頼みとして悪を行なったときでも救われるのか?
法然上人は、
「罪人なりとても(往生を)疑うべからず。」
と仰る一方で、
「罪は十悪五逆の者も生まると信じて少罪をも犯さじと思うべし(どんな極悪人でも往生できると信じつつ、小さな罪でも犯さぬようにしなさい)」
と言われています。
えっ、結論は一体どちらですか? 悪を行なってもよいのかだめなのか。

さて、ここで「お念仏を称えたから悪を行なっても大丈夫」という人の最期の時が来たとしましょう。そのとき阿弥陀さまはどうおっしゃるでしょうか。
「やむにやまれず悪を行なってしまい、心底悔い改めて往生を願うのであれば救いとろう。しかし、初めから悪の悦びと極楽浄土の両方を手に入れようという態度は間違っている。そなたには極楽浄土はふさわしくない。」
と言われるかもしれません。
あるいは、
「そなたは何という愚か者か。だが、わが名を呼ぶのも仏縁である。極楽浄土で修行に励むがよい。」
と言って下さるかもしれません。
私にはそのときの仏さまの御心は分かりません。しかし、今はこのようなリスク(悪と往生を共に望む)は取らないことです。あとで大きな後悔が待っているかも知れないからです。もし他人の命を縮めるようなことになれば、生きている間だけでも大きな苦しみを受けることは間違いありません。

これは第二のご質問への答えでもあります。

「また私は統合失調症で働く事ができません。こんな人生なら『南無阿弥陀仏』と称えて自死の道を選んでも良いのでしょうか?」

阿弥陀仏の本願力を信じてお念仏を称えれば、誰でも往生できます。
従って、どのような亡くなり方をするかを問いません。
しかし…仏さまの言葉を逆手に取って、仏さまを試すようなことをすれば、どうなるかは保証できません。
「自死を奨めるために本願を立てたわけではない。」
阿弥陀さまはこのように言われるかもしれませんね。
往生できない、とは申しません(私には分かりません)が、やはり大きなリスクが伴うでしょう。

「阿弥陀仏と 心は西にうつせみの もぬけはてたる声ぞすずしき」

(法然上人)

もうこの世への執着がほとんどなくなり、心があたかも西方浄土にあるかのようであれば、肉体の命がどのように終わるかは関係ないでしょう。
しかし、
「もし健康であれば、もう一度人生をやり直してみたい。」
「もしもっと容姿が良ければ…、もしもっとお金があればもう一度人生を生き直してみたい。」
「もし…なら」
「もし○○なら」
という思いが強い人は、往生(=輪廻転生からの卒業)を本当に望んでいるわけではない、ということです。

あなたの場合は如何でしょうか。

何れにしても今生は限られた時間です…あなたにとっても私にとっても。思いを残さず精一杯生きてみては如何でしょうか。あなたなりの精一杯があるでしょう。
そして南無阿弥陀仏、あとはすべて仏さまの御手に委ねることです。◆