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2014.11

 
宇宙のちり

浄土宗には「凡夫(ぼんぶ、と読みます)」という概念があります。
これはたいへん興味深い考え方です。
私たちはただの凡夫に過ぎない。簡単に言えば、たいした存在ではないということです。神に選ばれた特別な人でもなく、仏教に深い理解をもつ優れた人でもない。たいした智慧もなく、知識と言えば聞きかじりの借りものばかり。周りの人の言葉や態度に振り回されて一喜一憂、考え方に一貫性もない。人を傷つけ人に傷つけられ、わーわー言いながらあっという間に一生が終わってしまう。
というと何だか気分が落ち込んでしまうかもしれませんが、それが私たちの真の姿です。万物の霊長? いえいえ、宇宙のちりみたいなものです。
しかし一方、自分が「宇宙のちり」に過ぎないと本当に気づきはじめると、そこに大きな空間が開けてきます。所詮「ちり」ですから、他の「ちり」と自分を比較してもしょうがありません。隣人がいかに立派に見えても、それは一見立派に見える「ちり」に過ぎません。自分とは関係ない。巨大な宇宙空間の中で、自分がどこにゆくのか、どこ向かって流れてゆくのかだけを考えれば良いのです。
そこで私たちが出会うのが、「ちり」を導いてくれる光明です。この光明に私たちは吸い寄せられ、身を任せてゆく。これが浄土の教えです。
自分はただの「ちり」に過ぎない、という自覚が出発点となります。そこに先人(浄土宗では釈尊、善導大師、法然上人といった方々)の導きとの出会いがあり、阿弥陀仏への帰依へとつながってゆきます。

われ浄土宗を立つる意趣は、凡夫の往生を示さんがためなり

(法然上人)

浄土宗の信徒の方でなくとも、この「凡夫」という見方は重要です。「自分は非凡な存在である」と思うこと自体はいけないことだとは思いませんが、自分の価値観や自分の美学、過去の経験、マイワールドに閉じ込められて外に出られなくなっている人が多いのも事実です。「凡夫」という見方を学ぶことによって少し肩の力が抜け、ホッと息をつけるのではないでしょうか。

「宇宙のちり」に過ぎない自分。でもたったひとかけらしかない、かけがえのない「ちり」。
そのくらいがちょうど良いかも知れませんね。◆