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2016.07

 
日蓮宗と浄土宗

 日蓮宗といえば『法華経』。「諸経の王」として古来尊ばれてきた経典です。浄土宗では『浄土三部経』が基本ですので、法華経は読誦しません。修学の際も、仏教概論や大乗仏教史を学ぶ中で簡単に触れる程度です。
 日蓮聖人ご自身は浄土宗を厳しく批判された方でありまして、浄土宗と日蓮宗はいわば水と油。今日では両者の間に宗論こそありませんが、交流もありません。しかし法華経も浄土経典も同じ大乗仏教。大乗仏教の大切な教えが共通してそこにあるのです。

 大乗とは文字通り「大きな乗りもの」の意で、「あらゆる衆生を乗せてさとりに導く大きな乗物(教え)」(『岩波仏教辞典』)のこと。自分自身の学問・瞑想のみに専念する出家修行者(かつては小乗仏教と呼ばれました)に対し、人々の覚りと救済のため利他に励むべし、と説く仏教です。
 この大乗仏教の特徴を三点挙げましょう
 第一は「永遠の仏」です。
 釈尊は80歳でご入滅されました。さてそのあと残された仏教徒たちはどうなるのでしょうか。これは当時(仏滅後数百年の間)大問題だったに違いありません。われわれ仏教徒は何を頼りに生きてゆけば良いのか。確かに釈尊の説かれた法は残っている。われわれを導いて下さるのは「かく生きよ」という釈尊の遺された法(教え)だけなのか。このような不安の中で、釈尊が信仰の対象として-超歴史的存在として崇拝されるようになったのは自然な成り行きでした。
「歴史上の釈尊は80歳で亡くなられたが、現在もわたしたちを導いて下さる永遠の仏がおられる。釈尊のお覚り、その智慧と慈悲は永遠に輝いている。永遠の仏が今ここでわたしたちを護り導いて下さっているのだ。」
 これはただ単に、信仰上の仏さまが考案されたということではなく、多くの仏教徒の魂のレベルで実感された真実だったことでしょう。永遠の仏-これが大乗仏教の柱です。法華経では「久遠実成の釈迦牟尼仏」浄土教では釈尊に先立って覚りをひらかれた「阿弥陀仏(無量寿仏)」として説かれます。

 第二は、「すべての人が仏になれる」。
 法華経には「三乗方便、一乗真実」の教えがあります。大乗仏教でしばしば批判の対象となる声聞乗、縁覚乗の二乗も仏になれる、と説きます。浄土教では「念仏衆生、摂取不捨」(『観無量寿経』)と示され、念仏を称える人はすべて、例外なく極楽浄土に往生できると説かれます。(成仏は往生の後です)『無量寿経』には三悪道(地獄道・餓鬼道・畜生道)に堕ちて苦しんでいる者も、阿弥陀仏の光明に出会えば次の生で解脱を得る、と説かれています。
 一切衆生にことごとく仏性あり。法華経も浄土経典もこの誰しもの心の底にある仏性が花開く、一切の人々が仏になれる、と示してくれるのです。

 第三は、「菩薩精神」の強調です。
 自分自身の覚りをさておいて人々のために尽くす。これが菩薩精神です。法華経には常不軽菩薩、薬王菩薩、上行菩薩、観世音菩薩等さまざまな菩薩が登場します。日蓮聖人ご自身も、苦難と弾圧に満ちた布教活動の中で、みずからを上行菩薩と自覚されます。
 一方浄土教においては、「一切の人は皆凡夫である」という人間観から今生における菩薩行は強調されません。なぜなら、われわれ自身は仏の智慧に遠く及ばない愚者である。そればかりか内実は罪悪にまみれ存在であり、阿弥陀仏の慈悲にすがるしか救いの道がない。このように説くからです。真の利他行を行なうためにはまず極楽往生が第一。往生ののちに利他行を行なえる力を得ることができる。というわけで、浄土教においては表面的には菩薩精神は強調されません。
 しかし、浄土教の根幹は法蔵菩薩の「一切の人を救わん」という誓願です。菩薩精神という礎石の上に浄土教全体が成り立っているわけです。
 そして「自分は凡夫であると自覚せよ」といっても、実際のところ精一杯やってみなければ自分の限界は見えてきません。利他行-それはボランティア活動かもしれませんし、職業や家事を通じて直接間接に社会に貢献することかもしれません。また日々の生活の些細な場面でさりげない心遣いをすることも立派な利他行です。利他行に努めよ。浄土宗だから、念仏往生第一だから利他行は行ないません、というのでは駄目です。凡夫往生をかなえてくれる念仏を称えながらも、一方では利他行に励み、菩薩精神を大切に育むべきです。

 ここに述べました「永遠の仏への信仰」「すべての人が仏になれる」「菩薩精神」は大乗仏教の三本の柱と言ってよいでしょう。初期の仏教には見られないものです。法華経にも浄土経典にも通ずる三本柱。この大乗仏教の原点に立てば、日蓮宗も浄土宗もそれぞれの教えを護りながらともに手を携えることができるのではないでしょうか。
 大乗仏教については、「お釈迦さまが直に説かれた教えではなく、後世の仏教徒の創作である」という批判的な見方もあります。しかし、仏道を広く考えて「人として成長する過程」ととらえるならば、学問と瞑想だけでは限りがあります。人間関係の葛藤や支え合い、喪失の苦しみの中に放り込まれて初めて、自分の執着心や縛りに気づかされるのです。おのれの限界や愚かさに嫌というほど向き合って初めて、仏の偉大さを理解できるのです。日蓮聖人も法然上人も、そのように思っておられたのではないでしょうか。

 私は大乗仏教の歩みの中に、目に涙をたたえつつ仏さまに手を合わせる人の姿に、真実を見ます。◆

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