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2018.10

 
お布施のこと

 お布施について何度か書いて参りましたが、もう一つ加えたいと思います。
『スッタ・ニパータ』という古いお経があります。岩波文庫などで読むことができます。その中に次のようなお話が出てきます。

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 田を耕すバラモンであるバーラドヴァージャという人が、お釈迦さまに言いました。
「私は、農耕の労働をしたあとで食事をしています。あなたは働きもしないで、布施によって食事をしています。あなたも働いてから、そのあとで食事をするべきです。」
 お釈迦さまは答えます。
「私もまた田を耕し、種をまいている。それから食事をする。」
「われらはあなたが耕作するのを見たことがありません。どういうことでしょうか。」
「信仰は種子である。苦行は雨である。智慧はわが軛と鋤である…。身体をつつしみ、言葉をつつしみ、食物を節して過食しない。わたしは真実を草刈りとしている…。努力はわが駄牛であり、安穏の境地に運んでくれる…。
この耕作はこのようになされ、甘露の果報をもたらす。この耕作を行ったならば、あらゆる苦悩から解き放たれる。」
 するとバーラドヴァージャは、大きな鉢に乳粥を盛って、師に捧げました。
「どうぞお召し上がりください。あなたは耕作者であられます。甘露の果報をもたらす耕作をなさっているのですから。」(抄録)
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 このお話は、「農耕者の労働と同じように、修行者も別の次元の労働を行なっている。農耕者はその労働によって収穫を得て、食事をとることができる。修行者もまた修行の果報を得て、食事をとることができる」と説かれているように読めます。しかしその奥にもう一つ、重要な教えが隠されています。
 それは、このやり取りによってこのバラモンが精神修行の価値を知った、という点です。(バーラドヴァージャはのちにお釈迦さまのもとで出家し、覚りを開いて聖者の一人になります)
 布施を施すことを機縁として、施す者(ここではバーラドヴァージャ)は教えに触れる機会をもつことができます。お釈迦さまの教団では修行僧の労働が禁じられ、信者からのお布施によって彼らの衣食が支えられていました。その主たる目的は、修行者たちが世俗の関わりから離れて修行に専念するためでしたが、さらにもう一つの目的は、信者から布施を受けることによって、信者たちが修行僧に接触する機会を作ることができる、そしてそれによって信者たちが教えを(直接的にであれ間接的にであれ)学ぶ機会を作るためであった、と思われます。冒頭の逸話はそれを示しています。
 今日ではたとえお寺に足を運ばずとも、読書やインターネットを通じて自宅でも仏教を学び、教えを知ることができます。加えて寺院に布施をすることによって、布施をする側・受ける側という双方向の関わりが生まれます。この関わりの中で、布施をする側は教えに価値を見出し、自分の中でそれを味わい、ひいては日々の生活の中に教えを生かすことができます。(人は、お金を払ったものに対して価値を見出し、そこから学ぼうとします。)
 お布施の授受によって関係性ができ、互いに影響を与え合います。中には「束縛を受けるので布施を受けてはならない」という教えもありますが、それでは宗教者と一般の方々とのつながりはなかなか広がりません。寺院の維持という点もさることながら、布教の点からもお布施の授受は重要なのです。
 またお布施の授受によるマイナスの影響もあり得ますので、それを防ぐために仏教には「三輪清浄」という教えがあります。

  ・「私が」布施をした、とこだわってはならない。
  ・「これを」布施した、とこだわってはならない。
  ・「あの人に」布施をした、とこだわってはならない。

 この三つの執着心をもたずに布施をするべきである、という教えです。
 お布施を受け取る側が浄らかな心で受けるべきであるというのはもちろんですが、お布施を捧げる側も「これだけ布施をしたのに私に見返りはないのか」、「使い道は何なのか」…など執着心を持ってはならない、ということです。
 先日アメリカの方から、
「林海庵のWebsiteやFacebookを通じて自分でも簡単に実践できる仏教を知りました。遠方からではありますが、林海庵をわたしのお寺だと思って支援したいのです」
 というお申し出を頂きました。誠にありがたいことで、何とかお気持ちに応えたいということで、今回ご送金をお受けできる新しい形を作ることにいたしました。
 宜しければ皆さまも浄財のご支援をお願いいたします。◆

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