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Q&A 19

質問19

仏教
「信仰」というものが今ひとつよくわからないのですが...。
〈回答 19〉 何かを信じる、というのはどういうことでしょうね。
第一に、直接目に入るもの、耳に入るもの——これらには「確かに見た」「確かに聞いた」という確信をもてるでしょう。他の人には違ったように見えたり、違ったように聞こえたりする場合もあるかもしれません。しかしそのようなときにも、「私はこのように見た」とか、「確かにこう聞いた」と言えますね。見るとか聞くとか以外にも、たとえば蚊に刺された... かゆい、ということは客観的に証明するのは難しいかもしれません。しかし、当人にとっては明らかなことです。「おなかが空いた」「悲しい」「楽しい」... このように、直接自分で体験したことについては、私たちは明らかな感じ——確信をもちます。
第二に、私たちは、客観的に推論されたこと——妥当と思われる推論にも確信と呼んでよい感覚を抱きます。たとえば、1000+2000=3000。私たちは1000という数や2000という数を「1,2,3,4,...,1000」というふうに指を折って数えなくても、「分かっている」という感じをもっています。1000と2000を加えると3000になる。私たちは算数の教育を受けて身につけているので、なぜ?という疑いを持ちません。あるいは毎日の新聞やテレビの報道——たとえ自分が直接見聞きした実体験でなくても、私たちはそれを信じます。まさかありもしないことを報道するはずがない、と私たちは思っています。これが二番目。直接体験したことではないが、そう推論できることに私たちは確信をもちます。
そして第三は、心から尊敬できる人が、その体験から語った言葉です。あなたは「この人は自分を遥かに超えている」と思えるような人、しかも自分にとってこの世ならぬ魅力をもった人に出会ったことがあるでしょうか。そして、そのような人が「わたしはこう経験した」「わたしはこう思う」と語ったとします。その言葉を私たちはどう受け取るでしょうか。
たとえその人が語ったことが私たち自身の直接体験でなくても、またその内容が私たちの日常的な感覚で推論できるようなことでなくても、私たちはその人の言葉に信頼感をもちます。今の自分にはそれを直接体験する力はないが、そこには何らかの真実がある。あるいはその言葉を聞くと、何か解き放たれたような感じがする、とか、自分が受け入れられた感じがする... そうした感覚です。私たちは、その方が語った言葉を信じます。
宗教の信仰の基礎には、そのような感覚があります。この感覚が深く掘り下げられ、確信と呼べるまでに育つには、さらにプロセスがあることでしょう。しかし出発点は、心から尊敬できる人の言うことを聞いて生じる、この素朴な感動にあります。