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Q&A 22

質問22

浄土宗
自死された方の往生について、どう考えますか?
〈回答 22〉 これは、私の敬愛するある僧侶の方から頂いたご質問です。
自ら命を縮めるということは、とても悲しく残念なことではありますが、長い長い魂の旅(輪廻転生)のなかのひとこまに過ぎません。身体的な生命はいろいろな原因で失われます。自ら決断を下す、というのもその原因の一つです。
そのような場面に立ちあったとき、私たち僧侶はどうすればよいのでしょうか。

第一に、自ら命を縮められた方に対しては、ひたすらお念仏をおとなえして、かの仏にその方のお導きをお任せすることだと思います。
「心をこめて念仏申すものは、ただ一人の例外もなく往生する」
との教えを信じましょう。かのお名前を呼ぶならば、そこにはいかなる妨げもありません。亡くなられた原因にかかわりなく、極楽往生はかないます。

第二に、ご遺族に対しては、あたたかい心をもって共にある、ということが大切です。ご遺族や身近な方々は、「どうして気づいてやれなかったのか」「自分にも原因があるのではないか」と、その方の業をわが身に引き受けて、自分を責めてしまうことがあります。また、その方に対する怒りの感情を抑えきれなくなることもある。あるいはそれらの感情が中ぶらりんになって、出口のない場所に閉じこめられてしまうこともあるでしょう。もしそれらのことを少しでも理解して、しかも近くにしっかりといることができれば、ご遺族の助けになることができると思います。どう言葉をかけたらいいか、困る場合もあるかもしれません。その場合には、目一杯困りましょう。だって、誰に分かるでしょうか。「この、私が陥った状況——いったい他の誰が理解できるだろう」という心の叫びに対して、「その問いに対する答えはこれこれです」と簡単に理屈を示すことなどできるでしょうか。
ですからあまり先走らずに、ご遺族が今いるその場所の近くに、邪魔にならぬようにただいる、ということが最良のことだと思います。そして、とにかく耳を傾けるということ、感じようとすること。それが、共にある——共に生きる、ということです。あとのことは、仏にお任せするよりほかありません。ご冥福を祈り、心をひとつにしてお念仏をおとなえすることができれば、それ以上のことはないでしょう。

第三——今まさに苦悩の渦中にあって、死を選択することもあり得るような人に対して。それはもしかしたら、つらい死別を経験したご遺族自身であるかもしれません。そのような人に「自ら命を縮めても極楽往生はかなう」と告げることは、どういう影響をもたらすか... 十分に考えるべきことだと思います。この言葉は、極楽往生がかなうのだから命を縮めてもよい、ということではありません。それでは論理のすり替えになってしまいます。教義的なことだけを考えて、極楽往生できるとか、できないとかいう議論に陥ることは避けなければなりません。
それよりも、なぜその選択を考えるに到ったのか、その方の心の中でどういうことが起こっているのかを語ってもらったほうがよい。その言葉、その心ににじっくり耳を傾ける中で、少し広いスペースに出られるかもしれない。手放せるものが出てくるかもしれません。
ここでもやはり、語るより傾聴する、そして感じることが重要になってきます。
いのちの電話」のサイトも参考になります。どうぞご覧になってみて下さい。