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Q&A 50

質問50

浄土宗
念仏をとなえるとき「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」と言います。「南無阿弥陀仏」という言葉には、何か意味があるのでしょうか?
〈回答 50〉 まず「南無」というのは、昔のインドの言葉「ナマス」の音に漢字をあてた言葉です。「南」とか「無い」とかいう意味があるわけではありません。「ナマス」とは、「帰依いたします」「よりどころといたします」という意味です。ですから、「南無阿弥陀仏」は、「阿弥陀仏に帰依いたします」「阿弥陀仏をよりどころといたします」という意味になる。
では「阿弥陀仏」とは...? これも「南無」と同じように、インドの言葉に中国で漢字をあてたものです。
「ミダ」は、「量(はか)る」という意味。英語に「meter」(計量器—ガスや水道のメーター、また長さや距離を計るときのメートル)という言葉がありますね。これらに通ずる単語です。この「ミダ」の前に否定をあらわす「ア」がついて、「アミダ」つまり、「はかれない」「はかりしれない」「限りない」という意味になります。
「ブツ」は仏です。これも、もとはインドの言葉「ブッダ」からきています。「目覚めた者」「真理をさとった聖者」の意味。
したがって、「アミダブツ」とは、「限りないほとけ」の意味です。では、この仏さまのどういうところが「限りない」のかといいますと、お経、つまりお釈迦さまの教えによれば、
「この仏の放っておられる『救いの光』が限りない(無量光)」
「この仏の『命(寿命)』が限りない(無量寿)」
ということなのです。
どうでしょう。ちょっとややこしくなりましたね。

まとめますと「南無阿弥陀仏」とは、
「限りない『救いの光』を放っておられ、また限りない『寿命』をもっておられる仏である『アミダブツ』に、ナーム、帰依いたします。」
という意味になります。

そしてこの浄土の教えによれば、「南無阿弥陀仏」ととなえれば、かの仏の救済力によって、この世の命終ってのち必ず「極楽浄土」という仏の世界に新たな命を得ることができる。念仏さえとなえれば、難しい学問をおさめなくても、厳しい修行を積まなくても、仏の世界へ往き、そこでさとりを開くことができる。また「南無阿弥陀仏」ととなえるときに、いちいち上記のような意味を考えなくても構いません。ただひたすら、浄土への導きをお任せしてとなえればそれでよい、というのが宗祖法然上人の教えです。

そうですね、例えばこのような疑問を持たれたことがおありですか。
「私は何のために生きているのだろう」
「人生に意味や目的はあるのだろうか」
「自分にとって、真の幸せとは何だろうか」
「人間は死んだらどうなるのか」
浄土の教えはこれらの疑問に答えてくれます。自ずと答えがやってくる。というより、これらの疑問が消滅する、といったほうがいいかもしれません。

この教えは仏の力に「極楽浄土」への導きをお任せすることから、「他力」の信仰であると言われています。しかし、これは自己努力を放棄するものではありません。
この世における自己努力はしなければなりません。今月分の家賃を阿弥陀さまが払ってくれるわけではないですし、好きな人への気持ちを阿弥陀さまが伝えてくれるわけでもありません。自分で感じ、自分で考え、自分の力を活用して、また人さまの力も借りながら、何とか生きていかなければならないでしょう。
(「他力本願」という言葉がありますが、本来の意味とまったく違うように使われています。本来の「他力本願」は、この世の努力を放棄して、自分ですべきことを他人任せにするという意味ではなく、死後の救い、つまり自分の力の限界を超えたところ、しかも自分にとって最も大切なところをすべて仏にお任せする、という意味です。他力本願については、このQ&Aのページの「質問 27」でも扱っていますので、そちらもごらん下さい。)
努力は必要です。しかし、ひとたび「仏のお導きはまちがいない」という信仰が生まれたら、この世の努力は苦にならないでしょう。エゴへのこだわりも緩んでくる。溶けてくる。「何だ、『自分が、自分が』と思い込んで頑張ってきたけど、たいしたことないじゃないか」と思えてくる。ここが不思議なところです。こだわりが緩んでくると、かえってものごとがスムーズに進んだりする。今まで10のエネルギーが必要だったことが、半分くらいのエネルギーでできるようになる。
私はこれを「念仏の功徳」だと思っています。