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Q&A 192

質問192

仏教, 宗教
「コラム倉庫」を興味深く読ませていただいています。
2005年3月のコラムの中に次のように書かれていました。
「『自分』という意識が生来のものではなく、借り集めの幻想であると見抜くことによって、『自分』への執着から離れ、苦を乗り越えるわけです。」
私もこのことがやっとわかりかける年になってきました。というか正直に申し上げると、3年ほどやみくもに坐禅を続けてきてやっと「借り集めの幻想」が見えてきた、というか「自分」という概念が崩れはじめてきた、と言ったほうがいいでしょう。
浄土門の方々は、「借り集めの幻想」をどのようにして知るのでしょうか?
私が自分のことを考えるとき、もし坐禅に出会っていなかったらこのことは永遠に理解できなかっただろうと思います。禅宗のお坊様の中にも、自分が無になるまで念仏を唱え続けるとおっしゃり、坐禅と念仏両方を行じている方もいるようです。
〈回答 192〉 実を申しますと、浄土の教え、また行の中では、「無我」についてつきつめてゆく、というプロセスは強調されません。私がコラムに載せましたのは、広く仏教一般の立場から自死について書いたものです。

では、浄土門ではどのように自分自身と取り組むのでしょうか。浄土門における「自分」観は、「凡夫」という言葉で表現されています。
「自分自身が大した者でも何でもなく、ただの凡夫に過ぎなかった」「何と救いがたい、愚かな自分であることか」——それまでの自我の概念が完全に崩れたときに見えてくる、救いの道が浄土門であると言えるでしょう。
では浄土門に入るためには、劇的な「自我崩壊」の経験が前提になるのか、といいますと、そういうことでもありません。念仏申すうちに信心(凡夫の自覚を含みます)が育ってくる、というのが、浄土門=広き門である所以なのです。

凡夫であると自覚することは、禅で重んじる「初心」に通ずるかもしれません。が、あえて申し述べさせて頂きますと、わが身、わが心の程度では涅槃の境地=輪廻転生からの解脱は絶対に不可能だ、と気づく境地が、「凡夫」という言葉の背景にあります。自分を解脱から遠ざける習慣的思考、習慣的行動、エゴ中心の傾向はあまりにも、あまりにも根深く、自力をもってそれを断ち切るのはほとんど不可能である、というわけです。これは、禅の道を歩まれる方にもご理解頂けるのではないでしょうか。
不遜な言い方になるかも知れませんが、私には、禅から念仏に進まれる方のご心境がよく分かるような気がいたします。

参 考■ ご質問で引用されている2005年3月のコラム「いわゆる『自殺』について」

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