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Q&A 194

質問194

浄土宗
 浄土宗の信徒です。
2年前に父が亡くなりました。毎日家族で念仏を称えています。
本を購入し、法然上人のみ教えを勉強しているうちに、親鸞聖人の『歎異抄』を読みました。その一節に、「親鸞は父母の孝養のために念仏したことはない…」とあり、いま自分が行っている念仏に、ふと疑問がわきました。
浄土門では、念仏はまず、自分の往生のために行うものと知りました。また、「回向」に二種あるとも知りました。浄土宗では、私のような「故人への念仏」は亡き人への「回向」となるのでしょうか?
父は生前、念仏を称えるような人ではなく、その分、私が念仏しようとの思いで唱えているのですが…。
〈回答 194〉『歎異抄』にある親鸞聖人のお考えとは、次のようなものです。

「亡き人への追善供養の念仏は、自力による善行であって、われわれのような凡夫無力の者がなそうとすべきことではない。本当に父母のために孝行しようとするならば、まず自分自身が浄土へ往生し、覚りをひらいて他者を救う力を身につけてから後のことである。」

一方、法然上人のお考えは、自分自身の浄土往生を第一とする点では同じですが、追善回向に関しては、『無量寿経』を引用しつつ肯定的なこともおっしゃっています。

「亡き人のために念仏を回向し候えば、阿弥陀仏、光を放ちて、地獄・餓鬼・畜生を照らし給い候えば、この三悪道に沈みて苦を受くる者、その苦しみやすまりて、命終わりて後、解脱すべきにて候。」

私自身、僧侶になり、寺に勤務し始めたときに次のような疑問を持ちました。
「法然上人が命がけで説かれたのは、往生浄土のためのお念仏のはず。だが、一般の浄土宗寺院で日々称えられているお念仏には、その心は薄いのではないか。皆で往生を願うというよりも、自分のことは差し置いた先祖供養のための念仏回向がほとんどであるように思われる。」

今は私も、多少考えが変わりました。多くの方は、家族との死別を契機としてお念仏に触れることになります。そうであれば、ご先祖に対し、仏道を少しでも前へ進まれますように、と願い、念仏回向をお勤めすることは、自然な心情に適っている。このように思うようになりました。また、浄土信仰に馴染みの薄い方にとっては、初めは「自分の往生を叶えて下さる阿弥陀仏」というよりも、「阿弥陀仏=ご先祖を護り導いて下さる仏さま」という理解の方が具体性があって、手も合わせやすいのです。

檀信徒とのお付き合いの中でこのように観察するようになってからは、「自分の往生のための念仏か、先祖供養のための念仏か」という対立的な見方ではなく、「ご先祖も自分も、同じ阿弥陀さまのみ光に包まれている。どうか私たちをみな共にお導き下さいますように」の心で、という風にお念仏を勧めるようになりました。

ご質問は、念仏信仰の根本に関わる大事な内容なのですが、こうしたテーマを一体どう考えたら良いのか─迷ってはまた法然上人のお言葉を読み返してみる─実を申しますと、私ども僧侶もその繰り返しなのです。

追 記■ ご質問の方からお返事を頂きました。

ご丁寧な回答を拝読しました。本当に有難うございました。
自分も亡父もご先祖様も・・・。そして私の家族も、皆一緒に考えて、阿弥陀様に
「日々お守り頂いて有難うございます。よろしく皆をお導き下さい」
という心を持って念仏に励みます。
何だかスッとしました。また今後ともよろしくお願いいたします。有難うございました。

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