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Q&A 27

質問27

浄土宗
「他力本願」と聞くと、何か無責任なような気がするのですが...
〈回答 27〉 自分では努力せずに他人まかせ——「他力本願」という言葉をこの意味でつかうことがよくあります。しかし、本来の意味は全くちがいます。
仏にすべてを委ねることによって、その導き(他力)に乗ずる。もう少し詳しくいうと、「我が名を呼ぶ者は、必ずわが浄土にすくい取る」という仏の宣言(本願)を信じ、ただひたすら仏の名を呼んで、浄土に導かれて往く、というのが本来の「他力本願」です。
これは実は簡単なことではありません。「なむあみだぶつ」と口に出すのはさして難しいことではない。しかし、すべてを委ねるとなると、簡単にはいきません。
「委ねる」のは誰でしょうか。他ならぬ「わたし」です。「わたし」が「わたし」の責任においてすべてを委ねる、ということです。ですから、たとえその結果がどうであろうと、他人のせいにはできません。そこには自分自身に対する大いなる責任があります。そして、自分には他の道、他の救いはもう無いのだ、もうこの道しかないのだ... という地点に達しないかぎり、この「委ね」は起こりません。とことん人生を生き抜いた人、生命を燃焼し尽くした人だけが、この地点に立つことができる。
そして、「わたし」がすべてを委ねたとき、この「わたし」、日常感覚的な「わたし」は溶けて消えてしまいます。あるのは、おおいなる「他力」のはたらきだけ...。
ですから、仏の力——他力に乗ずるためには、責任ある「委ね」、切実なる「委ね」が出発点である、と覚えておいて下さい。

「ただひとすじに仏の本願を信じ、わが身の善悪を省みず、決定往生せんと思いて申すを他力の念仏という」
(法然上人)「ただひとすじに仏の本願を信じ、わが身の善悪を省みず、決定往生せんと思いて申すを他力の念仏という」
(法然上人)

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