QA目次へ

Q&A 161

質問161

仏事一般
散骨について新聞で読みました。
「(遺骨を)まいた後に人目に分かるような形で残るのは不快感を与えるので、あらかじめ米粒大以下に砕いてもらう」
「散骨する日については、喪服でなくカジュアルな服を着るようにすすめている。その理由は…海や山に黒い服を着た集団がいることで、周囲に不快感を与えないため」
「夫の遺灰を散骨したある女性(79)は『ずいぶん沖でやるのだなと思いましたが、他人に迷惑をかけずにできました』と静かに語った。」
などと書かれており、読んだあと何だか変な気がしました。散骨は、そういうものなのでしょうか?
〈回答 161〉 散骨をすすめる活動は、私の理解するところでは、自然保護の観点から始まっています。緑豊かな山を切り開いて、次々と墓地開発してゆくのを何とか止められないか、という立場です。
自然保護の観点ももちろん大切ですが、大切な家族の遺骨を葬るのに、「周囲に不快感を与えないように」ことさら気づかいをしなければならないとしたら、悲しいことだと思います。 

話は変わりますが、こういうことがありました。
ある葬儀式をおつとめした後、火葬場に向かう車の列が道路を進みます。先頭は霊柩車。私ども僧侶は、たいてい霊柩車の次の車に乗ります。何気なく車外を見ておりますと、ふと独りのご老人が目に留まりました。その方は、道を歩いていて、たまたま葬送の場面に出会われたのでしょう、立ち止まって手を合わせ、頭を垂れて車の列を見送っておられます。そのお姿を見て、私は心動くものを感じました。そのご老人の祈り…見知らぬ亡き方の冥福を願い、遺族をいたわる声なき祈りが聞こえてくるようでした。
ご質問の新聞記事から目に浮かんでくる散骨光景とは、ずいぶん対照的です。

背景のひとつに、散骨が「葬送の文化」としてまだ充分に定着していない、だから周囲に対し充分に気づかいをして、トラブルが起こるのを未然に防がなければならない、ということがあるように思います。
事情はともかく、「周囲に不快感を与えないように」「他人に迷惑をかけずに」気づかいながら葬送しなければならないとすれば…それが本当に故人を尊重し、故人の冥福を祈るものになるのだろうか、遺族感情は充分尊重されるのだろうか…私も疑問を感じます。

がしかし、疑問を感じたその一方で申し上げますと、新聞記事はあくまでも新聞記事です。
もしもあなたが散骨に関心をお持ちなら、「こういう側面もある」ということを一つの材料として考え、判断なさればよいのではないでしょうか。
(散骨に関連したご質問と回答はQ&A82や、Q&A122にもありますので、よろしかったらご覧ください)

ご寄付のページへ