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2007.08

 
深心(じんしん)

「かの仏の国に生まれようと願う者は、三つの心を発(おこ)すべきである。」

先月は、一番目の至誠心(しじょうしん)について触れました。今月は二番目、「深心(じんしん)」をとりあげましょう。

「深心とは、すなわち深く信ずる心なり」(法然上人)

もう少し詳しく、何を深く信ずるのかということについて、法然上人のお考えを尋ねてみます。

「深心には二つある
一つには、

自分はどうしても煩悩から離れることができず、
悪しき罪をつくり続け、
遠い遠い過去生から、
迷いの世界をさまよい続けてきた。
ここから抜け出す道はまったくない。

というふうに、
わが身を振り返って、その救いのなさを確信することだ。

二つには、

かの阿弥陀仏は、
四十八の誓いをもって、
さまよう私たちをお導き下さる。
ゆえにそのお名前を称えるならば、
たとえ十回のお念仏、一回のお念仏であっても、
必ず極楽世界に救いとって下さる。

このように固く信ずることである。

はじめに、わが身の救いなきことを確信し、
のちに、そのような自分でも
阿弥陀仏の救いを信じて念仏すれば、
たった一回の念仏でも極楽往生できる。
こう深く信ずることが、「深心」だ。

第一の確信によって、
第二の信がより確かなものとなる。

以上は、わたし(法然)が師と仰ぐ善導大師のお考えだ。
わたしの考えも、これと同じである。

詮ずるところ、
念仏して必ず往生する、ということを、
まったく疑わない心を、
深心と名付けているのだ。」


 台風で飛んでシワに...

信ずる心、という説明しがたい対象を、このように段階を追って説かれています。

昨今、「自己受容」の大切さがしばしば強調されます。しかし浄土宗では、まずは徹底的に自己否定します。そして仏の誓いに信順することによって、「この私でも救われる」と自己が受容されてきます。自分が自分を受容するのではなく、仏の眼差しを通じて自分が受容されてくるのです。
さまざまな手法によって自ら心を静めたり、身体の奥底から智慧の声を聴き取ることは可能です。しかし、それらはいずれも一時的なものです。「輪廻転生から抜け出る」という一大事に関しては、私たちはあまりにも無力であり、仏の力=他力を頼りとすることにのみ、希望を見いだすことができます。
心の乱れた未熟な凡人であるこの自分と、光輝く覚りの世界…このまったく、どうしようもなくかけ離れた二者を結びつけてくれるのが、念仏往生の教えなのです。