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2013.07

 
法然上人夢譚(むたん)(8)... 三人の独白
法然上人夢譚 (1)... 一弟子の夢物語
法然上人夢譚 (2)... 三人の独白
法然上人夢譚 (3)... 六人の独白
法然上人夢譚 (4)... 四人の独白
法然上人夢譚 (5)... 四人の独白
法然上人夢譚 (6)... 四人の独白
法然上人夢譚 (7)... 三人の独白

―― 若い頃ずっと、私は賀茂神社に仕えるという特別の任務を負っていました。務めはできる限り果たしたと思います。しかし、私の人生には何かが欠けていました。
法然さまに初めてお目にかかった時、私に欠けている何かをこのお方は溢れるほど持っている、とすぐに分かりました。私がそう思ったことを法然さまも気づいておられたと思います。
あるとき私は重い病にかかりました。法然さまにひと目お目にかかりたい―と痛切に思いました。使いの者を出して私の気持ちをお伝えしましたが、法然さまはお見えになりませんでした。その代わり、長い長いお手紙を下さったのです。
見舞いに来て下さらぬことに落胆していた私には、そのお手紙は長い言い訳にしか読めませんでした。
しかし、それは間違っていました。法然さまは、真の意味で私のことを大切にして下さったのです。そして、こう気づきました。私は法然さまのお姿ばかりでなく、法然さまの背後に輝くみ光に目を向けるべきだった、と。
それが分かったのは、ずいぶんあとのことでした。

◇ ◆ ◇

―― あるとき上人は招きを受けて、勝林院での仏法談義に赴かれました。議論のやりとりは一昼夜に及んだそうです。
上人は帰ってから、こう言われました。
「自力で覚りを求めようとする法門と、念仏による救いを説く浄土門のどちらが勝れているか。法門の優劣は互角であったが、当世の人々にはどちらがふさわしいか、という点では、わたしの説く浄土門の方に軍配が上がったよ。」

その場に居合わせた人の話です。
「議論といっても、話していたのはほとんど上人お一人でした。
法相、華厳、三論、天台、真言、禅のそれぞれについて、上人の理解を超える話ができる人は一人もいなかったのです。いずれの道も、恐らく山頂である覚りに通じているのでしょう。上人はそれぞれが辿る道筋をこと細かに説かれました。実際に歩んだ人でなければ知り得ないような道の起伏、険しさ、途中それぞれの場所に広がる景色から、道ばたに咲いている野草のいちいちに至るまで…喩えて言えばそのような具合です。上人のお話はまことに多岐にわたりました。
集まった面々の中には、自説を滔々と語る人もいましたが、初めのわずかな時間だけでした。あとは稀に上人に質問をするだけで、他の時間は圧倒的な上人のお話に深く頷くばかりでした。」

別の人です。
「上人はやや低い、穏やかな声で話されました。ふだんと同じです。人が多かったものですから、注意して耳を傾けないと聴き取れませんでした。初めて聴く貴重な話も多く、いくつか印象に残ったところは戻ってからすぐに書き留めました。でもそれはほんの一部に過ぎません。
ああ、阿難尊者のような記憶力があれば…自分の愚かさを呪いました。」

こういう人もいました。
「仏教を二十年間学んできました。解脱や覚りと言っても、自分は何一つ理解していなかった―それが今日よく分かりました。浄土門に帰するかどうかは分かりません。確かなのは、まったくの初めからやり直しだ、ということです。」

別の人です。
「心から覚りを求めて歩んできた人は、かくも違うものか―とにかく驚きました。私がこれまで知っている僧侶は、ただ学問を弄ぶ人、仏教を通じて地位や名誉を欲する人、徳を積んで社会へ影響力を広げたい人、さもなければ遁世して廃人のようになってしまった人…そういう者ばかりでした。仏教者とはそういう人たちだと思っていたのです。
すっかり考えが変わりました。」

◇ ◆ ◇

―― 私のこれまでの人生は、周囲で起こる様々なことに翻弄され続ける―ただそれだけでした。仏の道とは遠くかけ離れた河の流れに浮かぶ落ち葉のようなものです。ただ流れに身を任すしかない―しかも、その流れは濁りきっていたのです。
初めてお目にかかった時、法然さまは微笑みながら、
「何も変える必要はない。ただお念仏をなさい。」
と言われました。
たったそれだけで仏の道に入れるのかしら…私のイメージでは、仏の道とは険しい階段を昇るようなものでした。数段踏み外して怪我をしたり、別の階段を昇っていることに気づいて初めからやり直さなければならなかったり、散々そうしたことを繰り返しながら、少しずつ少しずつ、上に昇ることができる―そういう道を想い描いていました。
ですから、ただ念仏なさいと言われても、当惑するばかりでした。お経を読めば答えが見つかるかもしれないと思って目を通してみましたが、何も分かりませんでした。
ただ、法然さまはこれまで出会った人の中で一番信頼のおけるお方―それだけは間違いありませんでした。それで、私もお念仏を始めました。
うまく表現できませんが、私の心と私の周囲が、少しずつ変わり始めたように思います。◆

(この話は夢物語であり、歴史的事実ではありません)

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