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2014.09

 
感覚と言葉

「お寺にお参りすると、そのときは心が清められた感じがするのですが、すぐに日常の心に戻ってしまいます」――

宗教は感じるものです。それは言葉ではなく、説明でもありません。自分の身体の中心で感じるものです。
「神仏の光に照らされている」「人知を超えた智慧を感じる」「たとえようのない慈悲の心に包まれている」
これらは皆、頭の中ではなく自分の身体の中心で感じて初めて理解できるものです。
そこまでの強い感覚でなくとも、単にお寺や神社に足を運ぶだけで「気持ちがよい」「すがすがしい」「ありがたい」…このような感覚を味わうことができるでしょう。それは、特別な場所で私たちが「神仏の光」の少なくとも一筋に触れることができるからです。

このように、感覚から宗教をとらえることはとても大切です。同時にまた、言葉による教えも大切です。なぜなら、感覚で体験するだけで終わってしまうと、それは時の経過とともに弱まってゆくからです。また体験が強烈である場合、その記憶は変質してゆくかもしれません。そこにエゴによる判断・操作が入り込むからです。「あれは本物であった」「自分は正しいものに出会った」。そこに本もの-偽もの、正しいもの-正しくないもの、正しいものを知っている私-それを知らない他人、という区別の心が入り込んできます。そのときそれはエゴを強めます。私たちの心は不純となり、純粋な宗教感覚は失われます。

そこで大切になるのは言葉による教えです。仏典のことばや聖賢の教えを学び、現在の自分の姿や自分の心に照らし合わせます。そのことによって私たちは再び謙虚になり、新しい感覚を保つことができるのです。
私たち僧侶は何十年にもわたって同じお経を読み続けます。毎日何気なく唱えていた(読み過ごしていた)一つの言葉が、あるとき大きな意味を帯びて自分の前に立ち上がってくる、というようなことがしばしばあります。

必ずしも難しい経文に通じる必要はありませんが、やはり読書を通じて聖賢の言葉にふれることはとても大切です。またできれば声に出して音読するのが良いでしょう。

宗教的感覚、宗教的感動が第一。さらに言葉に表わされた教えに触れることで、その感動を新たにすることができるのです。◆