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2016.02

 
「苦」という聖なる真理

 仏教を学んだことのある方なら「四聖諦(ししょうたい)」という言葉をご存じでしょう。四つの聖なる真理、という意味です。
 お釈迦さまの主要な教えの一つであり、宗派を超えて学ばれるものです。
 その第一が「苦」という聖なる真理。
 お釈迦さまの教えはこうです。
「人生の一切はみな苦である」
「たとえ悦びや楽しみを味わうことがあっても、それが終わる時は苦である」
 私は法話の中でこれを「人生は苦い夢のごとし」という風に少し表現を柔らかくして説明しています。
 さて、一見するとこれは悲観的な教えにみえます。
「人生のすべては苦しみである。たとえ悦びがあったとしても、それもいつかは苦しみに転ずるであろう。苦しみは欲望から生まれる。ゆえに欲望から離れて生きよ」
 さあ、そこに生きる悦びはあるのでしょうか。みずみずしい生命を感じながら人生を歩むことは仏教に反するのでしょうか。お釈迦さまは生きる悦びを否定されたのでしょうか。
 これらの疑問から、「仏教は人生を否定する教えではないのか」と誤解されることもあるのです。

 では、お釈迦さまはどうして「苦」を説くことから始められたのでしょうか。

 覚りや解脱に達するために、肉体を痛めつけるような厳しい修行=苦行をおこなう。これはインドでは特に珍しい事ではありません。今日でも行なわれています。片足で立ち続けたり、無数の針の上に横たわったり…かのお釈迦さまも極度の断食を行なったと伝えられています。しかし、そうした苦行には意味がない、と気づきそれを放棄されました。体調を整えたのちに最後の瞑想に入られ、ひと晩がたちます。翌朝、東の空に輝く明けの明星を仰ぐと同時に、お釈迦さまは偉大なる覚りを得られました。
 成道ののち、ほどなくして元の修行仲間に対して説かれたのがこの四聖諦です。いわば、特殊な人たちに説かれた教えです。一般の人々に向かって説かれたものではありません。
 だとすれば、お釈迦さまの真意はこうだったのではないでしょうか。

「あなたたちが行なっているように、そしてわたしが行なってきたように、日常生活とかけ離れた場所で特殊な苦行を積んでもそれは意味がない。肉体を痛めつける苦行によって、自我への執着心を克服することはできないのだ。
 だが、あなた方自身の人生をよくよく観察してみなさい。それは苦しみそのものではないか。生老病死の苦しみ、別離の苦しみ、人間関係の難しさなど、思うままにゆかぬのがわれらの人生。ごく当たり前の生活でさえ、それはさまざまな苦しみに満ちたものなのだ。
 ゆえに、わたしたちは特殊な宗教的苦行を行なうのではなく、実人生における『苦』に取り組むべきなのだ。まさにその苦しみへの取り組みの中で、自分自身の根深い執着心に出会うことができる。そこに目覚めのきっかけがあるのだ。
 あなた方は出家し、修行者となる道を選んだ。もはや欲と計算にまみれた世俗の世界に立ち戻る必要はない。だが同時に、特殊な身体的苦行をおこなう必要もないのだ。
 簡素な暮らしを心がけ、心を清らかに鎮めてゆきなさい。その中で、あなた方自身の苦しみや執着心と向き合うのだ。個々の体験に取り組み、そこから学びなさい。悲しみ、欲望、プライド、怒り、受け入れ難い自分、恐れ…実体験を通じて、これまで手に握りしめてきたものに気づきなさい。そしてそれを手放すことを学ぶのだ。それこそが、覚りに至る道である。
 わたしも可能な限りあなた方を助けよう」

 このように受け取ってみると、「苦」という教えが決して悲観的なものではなく、それまでの修行の観念を超えた新鮮で創造的な道を切り開いていることに気づきます。

 お釈迦さまのお言葉は、それを聴いた修行者たちの心に光のごとく真直ぐに差し込んでいったことでしょう。◆