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2016.04

 
仏教的態度

 仏教徒であるとはどういうことでしょう。
 私は、仏教徒である(あるいはそうあろうとする)とは「仏教的な態度を身につける」ということだと思います。
 いくら経典を暗誦できても、仏教学の学位を取ったとしても、仏教的態度が身についていなければ無意味です。
 温かな心で人に接する、周囲を清潔に整える、身ごなしに意識が行き渡っている、簡素な生活を心がける、明晰な考え方を大事にする、真正である、聖なる境地に心を向けている、自由で開かれた心を愛する…等々。
 寺院にあまり足を運ばない方の中にも、このような人はおられます。そういう方とお会いすると、すがすがしさ、明るさ、温かさを感じます。その一方で、たとえ僧侶であってもこれらの資質を欠いている方もいます。

 それでは、仏教的態度を培うにはどうすればよいのでしょうか。
 日常生活の中に宗教性に触れる時間を組み入れる—これが第一です。やはり「継続は力なり」。仏壇があれば一番ですが、仏像や仏像の写真、宗祖の肖像や優れた宗教者の写真もインスピレーションを与えてくれることでしょう。これらの前に坐り、心を開く時間をもちます。(読経、念仏、題目、瞑想、写経などももちろん素晴らしいことです)
 次に、若干で結構ですので、教えの基本を学びます。
 仏教の「苦」という教えについて先月、先々月のコラムに書かせて頂きました。他にも「無常」「無我」、また浄土宗であれば本願、凡夫というような基本の教えがあります。これらは自分にとってどういう意味をもつのか。日常生活の中に実感として取り入れます。すべては川の流れの如く過ぎ去ってゆく。過去のできごとを既に「終わったこと」として眺めることができたなら、起こり来る新しい状況に対して、新鮮な気持ちで取り組むことができることでしょう。
「苦」「無常」「無我」というような教えを学び、日常生活の中で実感として学ぶ。しかし、型にはまりすぎた理解にならぬように気をつけます。心の流れはとても微妙であり、四季折々の自然の文様を見るが如くだからです。またときには、恐ろしいほどの宿業や魔境と向き合わねばならぬこともあるでしょう。
 あまり多くを学び過ぎぬように気をつけます。過ぎたるはなお及ばざるがごとし。教えの森の中で迷子になってしまいます。

 日々の生活の中に、宗教性に触れる時間を作る。
 教えの一片を、胸にあたためながら生活する。

 私からの提案です。◆