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2023.01後半

 
節分の鬼
山田 隆治 記(令和5年1月)

 2月3日は節分です。豆を撒いて鬼を退治する行事は昔から行われてきました。こどもの頃は鬼の顔を描いたお面を被り、豆をぶつけ合って面白がったものです。

 節分とは、季節の分かれ目、節目である「立春」「立夏」「立秋」「立冬」の前日のことで、年に4回あります。旧暦では春から新年が始まったために、立春の前日の節分は大晦日にあたる大事な日でした。そのために節分と言えば、正月である立春の前日のことを指すようになりました。
 昔は、季節の変わり目には邪気が入りやすいと考えられていましたので、様々な邪気祓いの行事が行われてきました。豆まきも新年を迎えるための大切な行事の一つです。浄土宗の大本山である増上寺でも節分の日には大々的に豆まきが行われます。
 豆まきの起源は古代中国にさかのぼります。古代中国では、大晦日に「追儺(ついな)」という邪気払いの行事がありました。これが日本に伝わり、宮中行事として取り入れられるようになりました。その中の一つである「豆打ち」が庶民の間に広がっていき「豆まき」という形になったそうです。
 一方、鬼は邪気や厄の象徴。災害、病、飢饉など、人間の想像力を越えた出来事は鬼の仕業と考えられてきたのです。そのような鬼を退治するのに豆を使うのは、「穀物には生命力と魔除けの呪力が備わっている」という言い伝えによります。豆(魔目=まめ)を鬼の目に投げつけることで鬼を滅する「魔滅」に通じています。豆を煎るのは「魔の目を射る=邪気を払う」という意味で、煎った豆を使うようになりました。鬼に豆を投げつけることで邪気を払い、無病息災を願う意味合いがあります。

 仏教では、邪悪な心で人々を悩ませる者、人間に危害を加える凶暴な精霊、餓鬼の世界に落ちた者、地獄の獄卒などを広く鬼と呼んでいます。
 しかしながら顧みれば、実際の鬼は外にいるのではなく、私たち一人ひとりの中にいるのではないでしょうか。限りない欲望があり、激しい怒りや妬みの心を持ち、真理を知ろうとしない愚かさが私たちにはあります。この煩悩こそが私たちの「鬼」の正体なのです。
 煩悩を抑え、悟りを目指すことが仏教の教えであり目標です。とはいえ、これがなかなか難しい。難しいというよりもできないと言った方がいいかもしれません。

 法然上人も、
「自分は戒行(修行する時に守らなければいけない戒め)において、一つの戒も保てず、禅定(心静かに安定させること)において一つもこれを得ず、智慧において煩悩を断ち切って悟りを開く正しい智慧を得ることができない。私のような愚かな者の心は物に従って移りやすく、例えば猿が木の枝から枝へ飛び移るようなものだ。心は散り乱れて動きやすく、集中して平静を保つことは難しい」
と言っておられます。
 法然上人は愚かな自分やすべての人々が救われる教えはないかと、長い年月をかけて修行をお続けになりました。そして、中国の善導大師が書かれた『観経疏(かんぎょうしょ)』という書物の中の一文を見つけました。

「一心に南無阿弥陀仏と称えることを続けていれば、これこそ極楽浄土に往生することが決定している実践の行である。それは阿弥陀仏が迷いの世界にいるすべての人を救おうと誓われた本願の心を実践する行だからである」

 その文章を見て、法然上人はこれで自分のような者でも救われるという思いを持たれたのです。

 私たちのように、煩悩を無くすこともできずさまよっている者は、自分の力で極楽往生をすることはできません。そうではなく、阿弥陀様のお力に縋って極楽へ導いていただくのです。
 阿弥陀様はあらゆる世界の人々をお救いになることを誓われました。その誓いを信じてお念仏を称えることで必ず救われます。
 阿弥陀様の本願の実践であるお念仏を、これからもご一緒に続けてまいりましょう。☸

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