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2002.11

 
極楽浄土

「極楽浄土」…それは夢の中の世界のようであって、しかも夢とは違う現実感をもって体験しうる世界―また現実感のなかで体験できるとはいうものの、肉眼ではとらえられぬ世界のことです。

わたしたちは夢を見ること(覚えていること)があります。夢を見ているのは誰でしょうか。考えたことがありますか。夢の中であってもそこに「わたしが見ている」という感覚がないでしょうか。夢の世界の中にいて、例えば空を飛んだりとか、亡くなった人に出会ったりとか、いくら非現実的なことがそこで起こったとしても、そこには「夢の登場人物であるわたし」のほかに、「夢の世界を見ているわたし」がいます。この「見ているわたし」は昼間、勉強や仕事をしたり、家事をしたりしているときも続いています。

朝、目覚めた瞬間、直前のことを振り返ってみます。自分の内側のどこかに、「寝ているときから続いている意識感覚」がありませんか。それは何となく明るいとか、沈んだとかいう漠然とした気分かもしれません。あるいは、前の晩から続いている考えごとにまつわる感覚かもしれません。どこかよその世界にいた、という感じのときもあるでしょう。

「死」を迎えるときはどうなのでしょうか。そこに「見ているわたし」はいるのでしょうか。夢を見たり、寝ているときの意識状態とどう違うのでしょうか。また信仰の有無によって、死にゆく体験は違ってくるのでしょうか。

わたしたちは普段、昼間の生活を大切な現実として人生の基盤に据えています。夢やファンタジーの世界は、否定されないまでも、芸術や心理療法など、限られた分野でしか取り上げられません。いわば現実の仕事や勉強、家事が「主」。夢やファンタジーが「従」です。
しかし、死においてはこれが逆転します。普段大事だと思っていた現実生活が、潮が引くように遥か遠くに退き、夢やファンタジー、信仰、信念、霊的な世界が俄然リアルになってきます。
まさにそのとき、わたしたちの心の動揺を超え、彼方の世界から導いてくれる至高の存在がある…それが浄土の教えです。

月かげのいたらぬ里はなけれども
ながむる人のこころにぞすむ

(浄土宗宗歌)

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