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2003.09

 
合掌について

今月は身体の所作――合掌(がっしょう)についてお話をしましょう。

合掌の「掌」という字は「たなごころ」とも読みます。てのひら、という意味ですが、「た」は手のこと、すなわち「たなごころ」とは「手の心」という意味です。てのひらには心に通ずるものがある……本当でしょうか。両手のてのひらを反対側の手で優しく撫でてみましょう。何か感じますか? 私はてのひらに触れてみるとそこが自分の中心に近いところに通じているような、何かそんな感じがします。
両手を合わせる――この姿勢が宗教的な心を育てます。宗教的な心とは、別に難しいことではありません。素直な心、明晰な心、あたたかい心、感謝の心、不思議を感じる心、懺悔の心……こうした心です。自分の中心の近くにいる、そんな心の状態です。
昔のインドの人々は、手の形が「心の姿勢」に通じていることをよく知っていました。私たちも、例えば拳を強く握れば怒りや攻撃的な心に通じることを知っています。あるいは、上方にむけて手を開けば解放的でくつろいだ感じがします。このように、身体の姿勢、特に手の形は心の状態と深く結びついています。

林海庵の阿弥陀さまは坐像です。両足を組み、両手を組み合わせておられます。両手の指もまた、それぞれ親指と人差し指の先端を接しておられます。瞑想の姿勢です。なぜこのような姿勢をとっておられるのか。
日常的な場では、私たちの注意力は外側の世界に向けられています。見るもの、聞こえるもの、味覚や嗅覚の対象、目新しい品物や情報の数々に私たちはひきつけられ、それらに多くのエネルギーを注いでいます。しかもほとんどの場合、それは無意識的に行われています。そのときどきの状況に振り回されながら貴重な時間とエネルギーを浪費している――残念ながらこれが私たちの日常の現実です。私たちは人生の経過の中でいつかこの現実を知り、立ち止まります。「このままでよいのだろうか。」
外側の世界に不足を感じ、「人生にはもっともっと大切な果実があるにちがいない。私はそれを取り逃がしてきた」と感じた人は、内側の空間へと向かいます。身体を閉じた姿勢に保ち、それまで外側に向けていたエネルギーを反転させて内側深くに向けます。閉じた姿勢――両足を組み、両手を組む。閉じた姿勢をとることによって、内側に集中力を保つことができる、インドの人々は、体験的にこのことを知っていました。お気づきと思いますが、多くの仏像もこうした瞑想的な姿勢をとっています。なぜなら、そのような内向的・宗教的な姿勢のお像を仰ぐことによって、私たちの内側にも同様な心の状態が誘い出されるからです。

「合掌」という身体的な姿勢の中にも、このような背景があります。合掌することと内向的・宗教的な心の状態とは近い関係にあります。(よくいわれるように、なぜか「合掌しながら怒るのは難しい」のです。)宗教的な心をもって合掌することを積み重ねてゆけば、その心と姿勢の結びつきが自分の中に深く定着してゆくでしょう。いったんそれが定着すれば、宗教的な心を呼び起こしたいと思ったときに、合掌することが役に立ちます。そのためにはまずご自分で試してみて下さい。
目を閉じて呼吸を整え、ゆっくりと合掌してみましょう。胸のあたりで左右のてのひらが出会う瞬間、どんな感じがしますか。全身にあたたかい統一感が広がってきます。左右の手のひらはおたがいに出会いたがっています。おごそかな空気の中に、左右のたなごころに出会いの時間を与えましょう。そして、その合掌が自分の中心に通じている、とイメージしてみます。
どうぞそのような時間――わずかな時間でもよいのです――を、日常生活のなかに作って下さい。

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