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2004.11

 
なぜ浄土宗の教えを信じ、敬愛するか (2)

浄土宗の教えには二つの大きな特色があります。
一つは、死後の救いがはっきりと示されていること。もう一つは、お念仏をとなえるという易行(やさしい修行)を救い=往生のための最高の行として位置づけていることです。この二点において、私は浄土宗の教えを生涯よりどころにし、人さまにも勧めるに足る教えであると思っています。

まず、死後の救いがはっきりと示されている、とはどういうことか。
浄土宗の教えによれば、
「現代は末法(仏教衰退)の時代。生きている間に修行を積んでさとりを開くのは極めて難しい。肉体が死を迎えるときにまず阿弥陀仏のお導きを頂こう。そして阿弥陀仏のかまえられた仏の国である『極楽浄土』に往こう。『極楽浄土』であれば仏・菩薩の指導を直接頂くことができ、妨げもないので自然に修行が進み、さとりを開くことができる。」
人間の精神的な成長はどこまで可能なのか、自分自身はこの人生においていかなる可能性をもっているのか、を考えたとき、私自身、限界を感じざるを得ません。経験を積み、年齢を重ねるにつれてそこそこの成長はあるでしょうが、逆に思い込みやとらわれも増えてきます。「仏の智慧を得る」ところまで行き着くのは到底不可能に思えます。自分ばかりでなく、周囲の人々も同様。仏の教えは経典として確かに残っているが、それを実践してさとりに至ったという話は聞こえません。むしろ、煩悩にふり回され続けている自分の姿、他人の姿が見えるだけ…まったく絶望的な状況です。
ところが、身体の命が尽きるときに、大いなるジャンプ(極楽往生)がある…しかも、往生ののちに仏道をさらに進み、さとりにまで至ることができる、というのがこの教えの第一の特色です。

「末代の衆生、その行、成就しがたきによりて、まず弥陀の願力にのりて、念仏の往生をとげてのち、浄土にして阿弥陀如来・観音(菩薩)・勢至(菩薩)にあいたてまつりて、もろもろの聖教をも学し、さとりをもひらくべきなり。」(法然上人)

「詮ずるところ、極楽にあらずば生死をはなるべからず。(生死を離れる=迷いの世界から解脱する)念仏にあらずば極楽に生まるべからざるものなり。しかれば深くこのむねを信じたまいて、一向に極楽を願い、ひとすじに念仏を修して、このたび生死をはなれ極楽に生まれんとおぼしめすべきなり。」(法然上人)

「阿弥陀如来の光明は、あまねく十方の世界を照らして、念仏の衆生を摂取して捨てたまわず」(『観無量寿経』)

(この項、来月につづく)

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