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2006.09

 
仏教徒としての生活〈上〉

ある女性から、このように尋ねられました。
「私はふだん、自分が仏教徒であるという自覚はありません。お葬式や法事のときだけ、ああ仏教なんだ、と思うわけです。仏教徒として生活してゆく、というのは実際のところ、どういうことなのでしょうか。」

なるほど、ごもっともなご質問です。しばし考えた後、こうお答えしました。

「在家の仏教徒が守るべきものとして、五戒というものがあります。生きものを殺してはいけない、人さまのものを盗んではいけない、邪(よこしま)な男女関係はいけない、嘘をついてはいけない、酒に溺れてはいけない。これが五戒です。
これは、一種の生活規範ですが、それ以上のものでもあります。「ブッダ」という言葉は「目覚めたる者」を意味します。私たちもやがては仏の境地―目覚めた境地に至ることができますように、と願い、そしてその願いの上に正しい生活を築いてゆこう、というものです。
仏教の戒にはいくつかのグループがありますが、いずれも同じ。それらは生活規範として私たちの行動を制限するというよりもむしろ、目覚めた境地に向かう、シンプルな生き方を示すものです。五戒は、その一つです。

五戒の教えについて話しました。仏教徒としての生活、ということで、さらに二つほど付け加えましょう。
まず一つ。仏さまに手を合わせる、ということです。
日々仏さまに手を合わせるには、部屋に仏壇を置くのが一番。が、必ずしも仏壇でなくても良いのです。仏像や仏画、またはそれらの写真でも結構です。仏の世界につながる対象を眼の前に安置して、そこに敬いの心をもって手を合わせます。浄土宗であれば、阿弥陀如来や「南無阿弥陀仏」の名号を何らかの形でおまつりして、お念仏をとなえます。
形を整えることによって、心も育ってゆくものです。「仏に帰依したてまつる」と言葉に出す場合でも、目の前に仏像があるのとないのではずいぶん感じが変わってきます。
不動の仏像を前にすれば、私たちの心も安定してくるものです。そこに灯明と良い香りのお線香でもあれば、その空間は、たちまち崇高な雰囲気に満たされます。
毎日二回、あるいは一回、そこで仏さまに手を合わせます。しばしお念仏や沈黙のひとときをもって、仏の世界に思いを向けます。これほどの素晴らしい経験はありません。
歓びをもって日々仏さまに手を合わせることができれば、それだけで立派な仏教徒といえます。

(この項続く)

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