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2010.09

 
異聞 蜘蛛の糸(前)

ある日の事でございます。お釈迦さまは、極楽の蓮池のふちを、独りでぶらぶらお歩きになっていらっしゃいました。池の中に咲いている蓮の花は、みんな玉のようにまっ白で、そのまん中にある金色の蕊からは、何とも云えない好い匂いが、絶え間なくあたりへ溢れて居ります。
極楽は丁度、朝なのでございましょう。
やがてお釈迦さまは、その池のふちにお佇みになって、水の面をおおっている蓮の葉の間から、ふと下の様子をご覧になりました。この極楽の蓮池の下は、ちょうど地獄の底に当たって居りますから、水晶のような水を透きとおして、三途の河や、針の山の景色が、丁度のぞき眼鏡を見るように、はっきりと見えるのでございます。
するとその地獄の底に、カンダタと云う男が一人、ほかの罪人と一緒にうごめいている姿が、お眼に止まりました。このカンダタと云う男は、人を殺したり家に火をつけたり、いろいろ悪事を働いた大泥坊でございますが、それでもたった一つ、善い事を致した覚えがございます。と申しますのは、ある時この男が深い林の中を通りますと、小さな蜘蛛が一匹、路ばたを這って行くのが見えました。そこでカンダタは早速足を挙げて、踏み殺そうと致しましたが、「いや、いや、これも小さいながら、命のあるものに違いない。その命をむやみに取ると云う事は、いくら何でも可哀そうだ。」と、こう急に思い返して、とうとうその蜘蛛を殺さずに助けてやったからでございます。
お釈迦さまは地獄の様子を御覧になりながら、このカンダタには蜘蛛を助けた事があるのをお思い出しになりました。そうしてそれだけの善い事をした報いには、 出来るなら、この男を地獄から救い出してやろうとお考えになりました。幸い、そばを見ますと、翡翠のような色をした蓮の葉の上に、極楽の蜘蛛が一匹、美しい銀色の糸をかけて居ります。お釈迦さまはその蜘蛛の糸をそっと御手にお取りになって、玉のよう白蓮の間から、遥か下にある地獄の底へ、まっすぐにそれを御おろしなさいました。

こちらは地獄の底の血の池で、ほかの罪人と一緒に、浮いたり沈んだりしていたカンダタでございます。何しろどちらを見ても、まっ暗で、たまにその暗闇からぼんやり浮き上っているものがあると思いますと、それは恐ろしい針の山の針が光るのですから、その心細さと云ったらございません。その上、あたりは墓の中のようにしんと静まり返って、たまに聞えるものと云っては、ただ罪人がつくかすかなため息ばかりでございます。これは、ここへ落ちて来るほどの人間は、もうさまざまな地獄の責め苦に疲れはてて、泣き声を出す力さえなくなっているのでございましょう。ですからさすが大泥坊のカンダタも、やはり血の池の血に咽びながら、まるで死にかかった蛙のように、ただもがいてばかり居りました。
ところがある時の事でございます。何気なくカンダタが頭を挙げて、血の池の空を眺めますと、そのひっそりとした暗闇の中を、遠い遠い天上から、銀色の蜘蛛の糸が、まるで人目にかかるのを恐れるように、一すじ細く光りながら、するすると自分の上へ垂れて参るではございませんか。カンダタはこれを見ると、思わず手を打って喜びました。この糸に縋りついて、どこまでものぼって行けば、きっと地獄からぬけ出せるのに相違ございません。いや、うまく行くと、極楽へはいる事さえも出来ましょう。そうすれば、もう針の山へ追い上げられる事もなくなれば、血の池に沈められる事もある筈はございません。
こう思いましたからは、 早速その蜘蛛の糸を両手でしっかりとつかみながら、一生懸命に上へ上へとたぐりのぼり始めました。元より大泥坊の事でございますから、こう云う事には昔から、慣れ切っているのでございます。
しかし地獄と極楽との間は、何万里となくございますから、いくら焦ってみた所で、容易に上へは出られません。ややしばらく昇るうちに、 とうとうカンダタもくたびれて、もう一たぐりも上の方へは昇れなくなってしまいました。そこで仕方がございませんから、まず一休み休むつもりで、糸の中途にぶら下がりながら、遥かに目の下を見おろしました。
すると、一生懸命にのぼった甲斐があって、さっきまで自分がいた血の池は、今ではもう暗闇の底にいつの間にかかくれて居ります。それからあのぼんやり光っている恐ろしい針の山も、足の下になってしまいました。この分でのぼって行けば、地獄からぬけ出すのも、存外わけがないかも知れません。カンダタは両手を蜘蛛の糸にからめながら、ここへ来てから何年も出した事のない声で、「しめた。しめた。」と笑いました。ところがふと気がつきますと、蜘蛛の糸の下の方には、数限りもない罪人たちが、自分ののぼった後をつけて、まるで蟻の行列のように、やはり上へ上へ一心によじのぼって来るではございませんか。カンダタはこれを見ると、驚いたのと恐ろしいのとで、しばらくはただ、莫迦のように大きな口をあいたまま、眼ばかり動かして居りました。自分一人でさえ切れそうな、この細い蜘蛛の糸が、どうしてあれだけの人数の重みに堪える事が出来ましょう。もし万一途中で切れたと致しましたら、折角ここまでのぼって来たこの肝腎な自分までも、元の地獄へ逆落としに落ちてしまわなければなりません。そんな事があったら大変でございます。が、そう云ううちにも、罪人たちは何百となく何千となく、まっ暗な血の池の底から、うようよと這い上がって、細く光っている蜘蛛の糸を、一列になりながら、せっせとのぼって参ります。今のうちにどうにかしなければ、糸はまん中から二つに切れて、落ちてしまうに違いありません。
そこでカンダタは大きな声を出して、「こら、罪人ども。この蜘蛛の糸は俺のものだぞ。お前たちは一体誰にきいて、のぼって来た。下りろ。下りろ。そんなに重みをかけたら、糸が切れてしまうではないか。」と喚きました。「おい、お前たち。俺の声が聞こえないのか。昇ってくるんじゃない。」
そのときです。
「カンダタさん、カンダタさん」カンダタは、耳もとに自分の名を呼ぶかすかな声を聴きました。

―つづく―■

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