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2010.10

 
異聞 蜘蛛の糸(後)

―承前―
「カンダタさん、カンダタさん」カンダタは、耳もとに自分の名を呼ぶかすかな声を聴きました。
ハッとして視線をそちらに向けると、薄明かりの中に、小さな小さな金色の蜘蛛が一匹浮かんでいます。
「カンダタさん。私の言うことをよく聞いて下さい。」
どうやら、その蜘蛛が話しているようです。
「私はその昔、あなたに命を助けて頂いた蜘蛛です。何とか恩返しをしたいと思っていたのですが、その機会がありませんでした。かの尊いお方、お釈迦さまが私の心を汲み取って下さり、この糸を垂らして下さったのです。でも、もうじきこの糸は切れてしまいます。あんなに沢山の人たちの重みを支えることはできません。しかし、あなた一人でしたら大丈夫です。私の糸はこの糸よりも、もっともっと細いものですが、あなた一人だけでしたら、極楽へ運ぶことができるはずです。だから、私の身体をしっかりとつかんで下さい。」
カンダタは、しばらく考えました。
「そうか。そいつは有り難い。でも、お前の身体をつかんだら、お前は死んでしまうではないか。」
「いえ、いいのです。もとはといえば、この状況は私が作ったものです。私が余計な思いを起こしたばっかりに、カンダタさんにいらぬ希望と、苦しみを与えてしまいました。あの人たちについても同じです。だから、私のことは心配しないで下さい。さあ、早く。この糸は切れてしまいます。」
まさにそのときでございます。今まで何ともなかった初めの糸が、急にカンダタのぶら下がっている所から、プツリと音を立てて切れました。ですからカンダタもたまりません。あっと云う間も なく風を切って、独楽(こま)のようにくるくるま わりながら、見る見るうちに暗闇の底へ、まっさかさまに落ちてゆきます。
さきほどの金色の蜘蛛は、必死になって自分の糸を伸ばします。落ちてゆくカンダタのそばに身体を寄せ、声を振り絞りました。
「カンダタさん、早く。早く私の身体をつかんで下さい。」
カンダタは言いました。
「いや、これもきっと俺の運命なのだろう。それだけの悪いことをしてきたからな。この上、お前の命を奪うわけにはいかないよ。俺はこの運命を受け入れよう。」
カンダタはくるくると回りながら暗闇の底に吸い込まれて行き、だんだんと意識も遠のいてゆきました。

やがて、ぼんやりとカンダタの意識が戻って参りました。そばに池があります。「そうだ、俺は血の池に戻ってきたのだ。またあの繰り返しが続くのか。」
しかし、少し様子が変です。血の匂いにむせるどころか、たいそう好い香りが漂っています。池を見ると、誠に透き通った水晶のような水で、真っ白い大輪の蓮の花がそこかしこに咲いています。カンダタは身体を起こし、池の中を覗いてみました。蓮の葉の間から底の方を覗いてみるとその暗い部分は蠢いていて、さらによく見るとそこに血の池やら針の山やら地獄の様子が鮮やかに見て取れました。
「すると…ここは地獄ではないのか」
カンダタはハッと顔を上げました。そばに人の気配を感じたからです。
見ると、背の高い、いかにも高貴な様子の方が歩いておられます。
「あなたは…」
その御方は、歩みを止め、カンダタの方をご覧になりました。その瞳の色にはこの上も無く深みがあり、天も地も、すべてを包み込むかのようでした。その途方も無い御目で、しばらくカンダタの方を見ると、視線を前に戻し、また歩み始め、やがて行ってしまわれました。 蓮池の蓮の葉には、金色の小さな小さな蜘蛛が巣を張り巡らしているところでした。真っ白な蓮の花の真ん中にある金色の蕊(ずい)からは、何とも云えない好い匂いが、絶え間なくあたりへ溢(あふ)れて居ります。極楽ももう午(ひる)に近くなったのでございましょう。■

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