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2011.06

 
日常生活での仏教修行 (2)─諸法無我(しょほう むが)

寺から20分ほど歩くと、多摩川に出ます。
河岸は緑豊かで、何といっても空が広い。気持ちの良い散歩コースです。

多摩川には多くの支流があります。
秋川、浅川、大栗川、野川、残堀川…
今、この5本の支流が多摩川を形作っている、といたしましょう。

「多摩川」という川は、この5本の支流から流れ込む水で成り立っています。
この5本の支流は「多摩川」ではありません。ということは、多摩川は、多摩川以外のもので成り立っている、ということになります。

では「私」とは何でしょうか。
仏教ではこう考えます。
「『私』は、よくよく調べてみると、私以外のものから成り立っている」

多摩川が5本の支流から成り立っているように、「私」も5本の川や池=5つの要素から成り立っています。それをこのように呼びましょう。
1.身体(からだ)川
2.五感川
3.連想池
4.外向(そとむき)川
5.名付(なづけ)川
(仏教の伝統では、それぞれ色、受、想、行、識と呼びます)

「身体川」には、呼吸や消化活動、体液循環や細胞形成、生殖機能、排泄機能などが流れていて一瞬も静止することはありません。
「五感川」には視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚からの刺激や情報が絶えず流れています。
「連想池」では、五感川や身体川から流れ込んで来た刺激や情報が混ざり合って、あちこちで川底の泥をひっかき回したり(過去の想起)、新しい水草を育てたり(未来の妄想)と大忙しです。
「外向川」は、連想池から外に向かって流れ出た川です。
「外向川」はやがて「名付川」となります。この川は、まわりのものごとにあれこれラベルのついた虫ピンを押し付けます。諸行無常─すべては流れつつあるにも関わらず、それらの流れを一時的に止めて名前を貼付けようとするのがこの川の特徴です。「好き」「嫌い」「良い」「悪い」「味方」「敵」などが代表的なラベルですが、そのほか日常生活での様々な分類や、諸々の専門知識に至るまで、ありとあらゆる分類と命名がここで行なわれます。

刻々と変化しつつある身体や五感がある。それらが受け取った様々な印象から、連想や妄想をふくらませ、やがてあれこれに色々なラベルを貼付け始める。(ラベルを貼付けたところで、ひと安心する。)
この5本の川や池、5つの機能を寄せ集めたものをたまたま「私」と呼んでいるだけである。よくよく調べると「私」という実体はどこにもありませんよ、これが仏教の考え方です。「私」ばかりでなく、すべてのものごとは皆同様です。全体を表す名前がついてはいますが、よく見れば諸々の要素の寄せ集めとで成り立っています。「多摩川」という実体がなく、5本の支流から成り立っているのと同じことです。

また5本の支流も、よく見ればそれぞれ実体があるわけではありません。いろいろなところから流れ込んだ水を集めただけです。そこに秋川、浅川、大栗川…という名前をつけただけのことです。
これが「諸法無我」という言葉で表される教えです。こうして川の流れに喩えてみると、「諸法無我」が「諸行無常」という見方と密接に関連したメッセージであることが分かります。すべては流れゆく。複雑にからみ合い、関わり合いながら─。だがそこには、全体を取り仕切る「私」はいない。

「『私』なんて本当は無いのだ。」これは大変なことです。
なぜなら、私たちの生活の前提─「私」がこの世に生まれ、「私」の身体と「私」の名前を持ち、「私」自身の感じ方や考え方を持っている、「私」の意志に従って「私」の幸福を求めて「私」の人生を選び歩んでゆく、という人生観、ごく当たり前の人生感覚そのものが崩壊することになるからです。

人間には「私の意志」などなく、すべては「私」以外のものごとによって決められてゆく。「私が為す」のではない。私の内側においても外側においても、すべてのものごとは起こっては去ってゆくのみである。
さあ、この「人生観の崩壊」(人生の崩壊ではありません)を直視してそれに耐えることができるでしょうか。
それが次なる仏教修行です。

しかし、この修行にあまり真剣に取り組んではいけません。ここまで読んで頂きながら申すのも何ですが、独りで「無我」に集中し過ぎますと、内面に大混乱を来すからです。

もう少し軽く考えましょう。
朝起きた時、また夜休むときに静かに坐ります。
肩から「私」の重荷を下ろして少し休憩する、くらいが宜しい。

自分の身体に意識を向けます。
「この身体はどこからやってきたのだろう。」
と考えてみましょう。
「私」が「私」の意志において設計して造り上げたものだろうか。
いいえ、違います。誕生から生存に必要な空気、水、食べ物…すべて外からやってきたものではありませんか。

次に、最近の気になったできごとを思い浮かべます。
それは、あなたが造り上げたことでしょうか。
一見、あなたの意志がそこに関わっているように思えるかもしれません。
しかしよく見ると、その「意志」も、元はといえば外から入って来た諸々の情報によって構成されているのではありませんか。

こうして、
「私がそれを所有している」
「私がこの状況をコントロールしている」
「私が◯◯にならなければ」
という思いを少しの間、手放してみて下さい。

無我の境地とまではいかなくとも、しばし自分を「私」の重荷と責任から解放してあげます。
「私は何も持っていなくても良い」
「私は何も知らなくても良い」
「私は何もしなくても良い」
「私は特別な人でなくても良い」
「私には本来名前はない」
というところにくつろいでみて下さい。

そんな無責任なこと言っていたら仕事にも勉強にもならないよ、と思われるかも知れません。でも、それは大丈夫。一日中そこに留まるわけではなく、朝晩のわずかな時間だけです。
むしろ自意識が少し和らぐことで、仕事や日常生活が柔軟に進むようになるでしょう。かえってそれらを楽しめるようになるかも知れません。

日々の暮らしの中でいっとき「私」を手放してみる。
これも良き仏教修行です。■

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