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2013.06

 
三学(サンガク)ヲ超エテ

4月(前々回)に「三学ノススメ」について書きました。
三学とは、戒(かい=清らかな生活)、定(じょう=心の安定)、慧(え=心の安定から生まれる洞察)のこと。仏教修行の基本です。
日々これらを心がけるだけで、私たちの人生、私たちの生活は飛躍的に改善される―そのあたりのことを書きました。
しかし、仏教徒としては問題が残ります。三学による生活の改善を積み重ねた結果、「覚り」にまで辿りつくことができるのでしょうか。あの釈尊が成道された地点と同じところに、私たちは本当に立つ(坐る)ことができるのでしょうか。
実のところ、釈尊は単に私たちの生活を向上させるために教えを説かれたのではありません。私たちをご自身と同じ「覚り」に導くために、成道の坐から立ち上がり、沈黙を破って教えの法輪を回されたのです。
覚りとは何か。それは限りなき光明であり、煩悩の断滅であり、輪廻転生の終止です。それはまた、他者に向かって溢れ流れる限りなき慈悲心であり、迷いの闇を打ち破る電光石火の如き鋭い智慧です。
「よし。必ずそれ(釈尊と同じ覚り)を達成してみせる。」
と決意し、その道に進まれる方もおいででしょう。
しかし多くの人はこう思うのではないでしょうか。
「現実問題として、自分の人生でそこまで行くのは無理であろう。自分より優れた人は世の中にたくさんいるが、お釈迦さまに匹敵するような人に出会ったことなど一度もない。噂を聞いたことすらない。それなのに、この自分がお釈迦さまと同じ覚りを開くなんて…。」
いにしえの時代に大乗仏教をつくり上げてきた人々も、そう考えたに違いありません。伝統的な修行にうちこむ出家教団は存続していましたが、実際に覚りを得た人は見当たらず、硬直化した集団、権威的閉鎖的な集団と化していました。釈尊が亡くなられて300年、400年も経てくれば無理もないことです。
ここに、直接仏を信仰し、今現在において仏の導きを得ようとする新しい信仰運動(=大乗仏教)が起こりました。そのなかの代表的な流れの一つが浄土教です。
浄土教では、三学を極めて覚りに至ることを断念します。この世で生身の身体をもちながら煩悩を断滅することはほぼ不可能、と考えます。(もっともこれは人から言われる話ではなく、わが身を振り返って自ら出すべき結論ですが…)そこで、阿弥陀仏の願い(それは釈尊の願いでもあります)にすべてを托します。その願いとはこれです。
「人びとを一人も残すことなくわが覚りの世界に導こう。そのために、わたしの名を称えさせよう。」
この大いなる誓いにわが身わが心、わが全てを預けん、とするのが浄土教です。
阿弥陀仏の覚りの世界に入るためには、三学は要りません。心からかの名を呼ぶ―それが唯一の条件です。ひとたびかの世界に入ることが叶えば、わが心も自然に覚りの境地に至ることができる。これが浄土教です。

かの世界は、まことの美に満ちた素晴らしい楽園です。大乗仏教はある意味でとても豊潤、贅沢です。覚りをめざしながらも、花鳥風月を愛します。大スペクタクルのごとき宗教詩を愛します。覚りをめざしながらも、人々への奉仕を大切にします。人々とともに歩むことを大切にします。
蓮の華が開くのはそれが生えてくる泥があってこそ。泥(煩悩)を汚れとして退けるのではなく、覚りの土壌として大切にします。花鳥風月を愛し、泥をも受け入れられるのは、阿弥陀仏への信頼と、その覚りの世界へ導かれる約束があるからこそです。

そして…また話を戻します。三学もまた大切。何度も申しますが、日々三学を心がければ、私たちの人生、私たちの生活は飛躍的に改善されます。
阿弥陀仏の導きを頼みにしつつ、三学に励みましょう。

結論―「なむあみだぶつ」と称えながらしっかりとお掃除をしましょう!



 「たとい戒定慧の三学すべて具したりといえども、本願念仏を修せずんば、往生を得べからず。戒定慧なしといえども、一向に称名せば、必ず往生を得べきなり。」
――法然上人

(たとえ三学をすべて修めていたとしても、阿弥陀仏の約束を信じて念仏を称えなければ、かの世界に入ることはできない。また三学を修めていなくとも、一向に南無阿弥陀仏と称えれば、必ず阿弥陀仏の覚りの世界に入ることができる。)◆

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