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2013.10

 
死の恐怖

私たちは死を恐れます。
なぜでしょうか。

生まれたばかりの赤ちゃんは死を恐れません。「死」ということが何を意味するのか分かりません。だから恐れようがないのです。私たちが死を恐れるのは、成長の過程で「死=怖いもの、苦しいもの、避けたいもの」と思うようになったからです。

おそらく、死を厭う心を親や周囲の人から受け継いだのでしょう。また、実際に近しい人が亡くなって辛い思いをしたり、あるいは病気で苦しい経験をして「死ぬときは、これよりももっとつらいだろう」と思ったのかもしれません。未知の経験であるがゆえの恐れもあるでしょう。
一度自問してみて下さい。「私はなぜ死を恐れるのか。」この思いを曖昧なまま皆が共有しているというのは、不思議なことかもしれません。

いずれにしても、成長する過程で私たちは「死は恐いもの、避けたいもの」と思うようになりました。

この観念は、わたしたちの生活の隅々にまで及んでいます。
死から逃げるために、私たちは安全の城を築こうとします。私たちは家を持ちます。動物であれば雨風をしのげればそれで十分でしょうが、私たちはそれだけでは不安です。土地を所有し、建物を所有しようとします。「所有」によって安全の城を築くのです。財産を所有し、社会的立場を得てこの城を守ろうとします。

もし「死」がなければ私たちの人生はどうなるでしょうか。
空腹になっても死なないのであれば、私たちは働かなくなるかもしれませんね。家を持とうともしなくなるでしょう。家族ももたないかもしれません。放っておいても子どもたちが自然に育つと分かっているのですから。

こう考えてゆきますと、私たちの人生はことごとく「死」あるいは「死を避けたい」という観念の上に築かれていると言えないでしょうか。

仏教は、この土台に切り込みます。
「そもそも『私』が虚構なのだから、『私の死』もない。」
「『世界』も『私』も夢のようなもの。生も死もかくの如し。」
「生も死も一つである。区別を設けるな。」
「今ここに徹して生きれば、生もなく死もない。」
「死は終わりではない。長い長い輪廻の旅の一コマに過ぎぬ。」
「『私はいない』は真実であるが、これを体感するのは難しい。生死を仏に委ねひたすら念仏せよ。」
―これらの教えは「死」と真正面から取り組みます。

このごろ「終活」という奇妙な響きの言葉を耳にしますが、仏道の学びがあって初めて、そのときへの準備が整うのではないでしょうか。葬儀のときにこの音楽を流して欲しいとか、棺にはこれを入れて欲しい、などと書き残すことに何の意味がありましょうか。

法然上人のお言葉にこうあります。
「法王、罪人に問うて曰く、『汝、仏法流布の世に生まれて、何ぞ修行せずしていたずらに帰り来たるや』と。そのときには我ら、いかが答えんとする。」

―われわれの来世の行き先を決める閻魔大王が、死後のわれわれにこのように問うであろう。『お前は仏教が流布している世に生まれながら、どうして修行もせずに虚しくまた戻って来たのか』と。そのときにわれわれはどう答えたらよいというのか。

「ゆえに、今こそ輪廻から解放される道をしっかりと求めよ。」
ここが出発点です。◆

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