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2015.09

 
死について(上)

 家族や身近な人との死別―それは人生の中でもっともつらい体験の一つです。お釈迦さまは「愛別離苦」=愛する人と別れる苦しみ、という言葉で表現されました。この苦しみに立ち向かわざるを得ない方々の脇にいて、いささかなりともお助けするというのが、私ども僧侶の大きな務めです。
 さて、今回はこの「死別」ということはいったん措いて、自分自身の死について考えてみましょう。
 自分は死んだらどうなるのでしょうか?
 まずこの肉体は失われます。正確に言えば分解、あるいは蒸発して遺骨だけが目に見える形で残ります。遺骨に対して、家族は私を偲ぶよりどころとして手を合わせてくれることでしょう。宗教的な礼拝対象にはなりますが、この遺骨自体には「私」の心や霊のようなものは宿らないと思います。自分の髪や爪を切ったときにそれらに霊が宿っているとは感じないでしょう。それと同じです。つまり、私自身の実感としては、火葬に立ち会ったり、ご遺骨を抱いたりする機会の多い中で、「このご遺骨は礼拝の対象であり、私たちが仏の世界へと心を向けるための象徴的な存在である。ご遺族の思いはここにこめられているが、遺骨自体には故人の心や霊のようなものは感じられない」ということなのです。
 さて、この肉体は失われます。ではわれわれの心や意識はどうなるのでしょうか。
 今、この「心」を表面の心=表層意識と、深い心=深層意識の二つの流れに区別して考えてみましょう。
 表面を流れている心は、朝起きたときに「さあ、もう起きる時間だ。今日はどういう日だったかな。ああ、そうだ。今日の予定は…」と考えます。この心がものごとを考え、それを実行し、他人と交わりながら生活を行ないます。ものごとを考える機能に加えて感じること、たとえばお天気の具合や、気温、身体の皮膚感覚、疲れ、空腹など、私たちが身体で感じ、同時にそれを意識している感覚もここに含みましょう。また感情、たとえば喜び、怒り、悲しみ、なども同様です。私たちがそれらを意識できていれば、それは表面の心です。私たちの日常生活は大方、こうした表面の心によって成り立っています。
 この表面の心から奥深く降りたところに、深い心が流れています。ふだん私たちはこの深い心を意識しませんが、何かの拍子に深い心の一部が浮かび上がってきます。たとえば、夜眠っている間に見る夢として。あるいは突然の記憶のよみがえりとして。ちなみに優れた芸術作品は、私たちをこの深い心へと誘います。詩、音楽、絵画、舞踊などから私たちは言葉であらわすことのできないような感動を受け取ります。それは、それらの作品がおそらく作者の深い心から生まれたものであり、それが私たちの深い心を刺激するからでしょう。
 今芸術に対する感受性のことを書きましたが、この深い心には私たちの個人的な記憶やこれまでに受け取った印象、そして欲望、怒り、悦びなどの深い感情が保存されています。
 仏教の説く「唯識」という考え方によれば、表面の心は死によって失われますが、深い心の流れは失われません。もっとも表面の心は毎晩眠るときに失われますし、昼間でもごはんを食べたあと電車に揺られると、いつの間にかウトウト…いとも簡単に失われてしまいます。死の前に意識が失われるのもこれと同じであって、特別なことではないと思われます。

 以上をまとめてみましょう。人間という存在は三層に分けて考えられる。
 第一の目に見える層は肉体。これは死によって失われます。
 第二の層は表面の心。これも死によって、また死によらずとも失われます。
 第三の層は深い心。これが死後も何らかの形で流れ続いてゆくと考えるか(仏教ではそれを輪廻転生と呼びます)、あるいはこれも肉体や表層意識とともに失われると考えるかによって、宗教を重視するか軽視するかが分かれてまいります。
 私自身はこのように考えています。朝起きた瞬間に心の内をのぞいてみると、そこに何かが流れている(あるいはつい今しがたまで流れていた)のを感じるのです。その「何か」はおそらく眠っている間も心の底流としてずっと流れ続いていた、という感じです。ここから考えを広げてみると、肉体と表層意識が失われたあとも深い心、深い意識は残るのではないか、ということです。
 さまざまな伝統がこの「深い心の世界」について神話や伝説、宗教として語っています。私はそれらの教えを尊いものとして尊重したいのですが、同時にこの深い心の世界はあまりにも広大で奥深すぎて、そのすべてを知り尽くす事はとうてい不可能であろう、とも思うのです。肉体や病気のことについて医学的に分かっている事はほんのわずかに過ぎない、と言われますが、この深い心についても同じ、否それ以上でしょう。ですから、この宗教が正しくてあの教えは間違っている、というのでなく、どの教えにも一片の真実はある、だがすべてを語り尽くしているわけではない、という態度が妥当なのではないでしょうか。

 私たちのお釈迦さまは、ご自身の広大なる深層意識を目覚めの光明で満たされた稀有なお方です。その光明が深みから表面の心へ、さらには肉体にも及んで、光り輝く存在=叡智そのものとなられたのでありましょう。しかしご自身の体験を語り、人々を導く道を言葉で表現するまでには相当骨を折られたことと思います。
 もし今の時代にお釈迦さまが生きておられたら、どういう言葉で私たちを導いて下さるのだろうか…いつも思うところです。◆

(次回に続く)

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