コラム目次へ

コラム倉庫

2017.11

 
法然上人のこと

 法然上人は、日本浄土教を大成された浄土宗の宗祖です。また世界史的な視点から観ても稀有な位置を占める大宗教家です。

 宗教とは一体何でしょうか。
「わたしはこの高みに登った。永遠なるものを知った。あなた方も努力を重ねてここまで登ってきなさい。わたしがあなた方を正しく導こう。」
 これが宗教というものです。神の啓示に基づくものであれ、個人の自覚に基く教えであれ、宗教の基本構造はここにあります。
 しかし、法然上人はこの構造を土台からひっくり返します。
「わたしはあなた方と同じ場所にいます。高みではなく最低の場所、暗闇の中で手探りしながら生きているのです。だがこのわたしでさえ救って下さるのが阿弥陀仏、浄土の教えです。さあ、あなた方もわたしと一緒に救われて参りましょう。」
 これが法然上人の呼びかけです。このような宗教家は(私の知る限り)他におりません。

 さて、法然上人のプロフィールです。
 上人は美作(みまさか-現在の岡山県)出身の人。押領使という役職にあった漆間時国(うるまのときくに)の子で、幼名を勢至丸(せいしまる)といいました。
 9歳のときに父が夜討ちに遭いますが、父の遺戒により仇討ちを断念し、仏門に入ります。
 13歳で比叡山に登ります。18歳のとき比叡山別所の黒谷に隠棲していた叡空上人を訪ねてその弟子となり、「法然坊源空」と名を改めました。その後長期にわたり研鑽を積み、43歳のときに善導大師の「一心専念弥陀名号」の文により心眼を開き、専修念仏に帰します。
 比叡山を下りたのち京都東山に住し、人々に浄土の教えを説きました。貴賎男女を問わず法然上人の教えに帰依する者多く、これに対して比叡山、興福寺などが強く警戒、抗議します。朝廷もこれを受けた結果、一時流罪の身となられます。
 建暦元年、京都に戻るもやがて病床に就かれ、翌建暦2年(1212年)1月25日、80歳で示寂されました。

 日本仏教の高僧の方々も上人への賛辞を惜しみません。

「本師源空は仏教を明らかにして、善悪の凡夫人を憐愍す。」
(法然上人は釈尊一代の教えに精通した上で、善人であれ悪人であれ、凡夫の立場に立って浄土の教えを興されました。)

 直弟子であり浄土真宗の祖となる親鸞聖人のお言葉です。親鸞聖人は法然上人に深く帰依され、生涯にわたってそのお人柄と教えを尊ばれました。浄土宗では「いわゆる善人も凡夫、悪人も凡夫である。いずれも仏の境地には程遠いが、念仏によって極楽浄土には往生できる」と考えます。

「智慧光のちからより 本師源空あらわれて 浄土真宗開きつつ 選択本願のべたまう。」

 親鸞聖人は、法然上人の教えのことを真実の浄土の教え=「浄土真宗」と呼びました。「法然上人が浄土真宗を開いた」と仰っているわけです。これは教団としての浄土宗・浄土真宗とは別の次元のお話です。

「親鸞におきては、『ただ念仏して弥陀に助けられまいらすべし』と、よき人の仰せを被りて信ずる他に、別の仔細なきなり。」

 よき人、とは法然上人のことです。

「阿弥陀如来化してこそ 本師源空としめしけれ。」

 阿弥陀如来の化身として法然上人がこの世に現れた、と仰っています。親鸞聖人が法然上人のことを師、尊敬する人というレベルを超えた存在として見ておられるのが分かります。お念仏される法然上人のお姿に、また教えを説く法然上人のお顔に、仏の光明を見ておられたのかもしれません。

 次は禅門(臨済宗)からの声です。

「伝え聞く、法然生き如来。蓮華上品に安座し、尼入道の無智のともがらに同じくす。一枚起請、もっとも奇なるかな。」

 一休禅師のお言葉。法然上人よりも後の時代(室町時代)の傑僧ですが、「もっとも奇なるかな」の表現に深い敬愛のお心がにじんでいます。
(『一枚起請』=『一枚起請文』については9月のコラム「法然上人の浄土の教え」をご参照ください。)

 多くの天才的宗教家を輩出した日本仏教ですが、法然上人はその中でも特別な場所を占めています。これらのお言葉の中に感じ取って頂ければ幸いです。◆

ご寄付のページへ