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2018.07

 
イメージ力が極楽浄土を作る?

 仏教には「唯識(ゆいしき)」という学派があります。わが国では興福寺、薬師寺などの法相宗(ほっそうしゅう)がこの学派にあたります。
 唯識は、現代の深層心理学に通ずる立場であり、「アーラヤ識」と呼ばれる深層意識がわれわれの心の奥底に広大に広がっている、と考えます。この深層意識は絶えず動き、われわれの表層認識(視覚、聴覚など)や自己執着に展開してゆく。さらには、われわれの認識ばかりでなく、外界のすべての事物も実はこのアーラヤ識が展開したものであって、われわれが受身となって外界の客観情報を受け取っているわけではなく、まるで映写機がさまざまな事物をスクリーンに映し出すように、深層の心であるアーラヤ識がこの世界を作り出している、というような考え方です。
 常識的なものごとの受け取り方を180度ひっくり返すような観点といえます。仏教者が、「世界も人生も、自分の心が作り出すものです」、「幸せも不幸も、外側の世界に原因があるのではなく、実は自分の心が作っているのですよ」というような言い方をすることがあります。いずれもこの唯識の考え方に基づいているといえましょう。
 仏教の目的である覚りに近づくためには、われわれは瞑想修行をベースに日頃の心や行ないを清め、ひいては心の深層にあるアーラヤ識を清めてゆかなければなりません。これが唯識派の仏道修行の基本的な考え方です。

 さて、この唯識思想を大成したといわれる世親(せしん—4世紀ないし5世紀に活躍したインドの学僧)という人は、浄土教では『往生論』というテキストの作者としてよく知られています。
 浄土教が説く「極楽浄土」は、仏さま・菩薩さま方がおられる優れた世界、美に満ちた世界であり、経典には言葉を尽くしてその美や素晴らしさが説かれています。(岩波文庫『浄土三部経』などで原典を読むことができます)
 それでは世親の内面において、唯識の立場と、浄土経典が説く極楽浄土とはどのようにつながっていたのでしょうか。その関連性を知りたいと考え、ある浄土真宗の碩学が唯識に注目して持論を展開しておられる文章に当たってみました。浄土真宗の親鸞さまのお名前の「親」の字は「世親」からきていますので、浄土教と唯識の関連性については浄土真宗の学者さん方の方が関心を持たれているようなのです。ただ、その著書では、「法蔵菩薩はアーラヤ識である」と述べたり、あるいは浄土真宗の信心獲得を唯識の修行段階になぞらえたり、と浄土教の用語を唯識の議論に「横から」当てはめているような印象があって、私には今ひとつピンときませんでした。
 むしろ世親はストレートに、現実世界と同等のリアリティーをもつ極楽浄土を考えていたのではないか——アーラヤ識が現実世界として展開しているのとは裏返しになりますが、イメージの力で極楽浄土を現出させ、それをアーラヤ識に浸透(薫習)させてゆくことを考えていたのではないか、と私には想像されるのです。

 これと関連しますが、チベット仏教の一派では、睡眠中に見る夢をある程度コントロールしたり、あるいは明瞭なイメージを心に描き、集中力を使って別の人の心に同じイメージを映し出す、というような(いささか超能力めいた)修行を行なう、と聞いたことがあります。自分の意識や心の現象の奥深くを探求し、コントロールしてゆくというのが重要な修行徳目になっているのでしょう。
 浄土教に関連させて言い換えると、仏教徒にとっての理想世界である極楽浄土をイメージの力によって創り出し、次にその世界に自分の意識をうつしてゆく、この修行を続けることによって理想世界のイメージを徐々にアーラヤ識に浸透させてゆく…これがヨーガの修行のひとつだったと思われます。

「極楽浄土は実在するのですか?」
 これは誰もが抱く疑問ですが、唯識の立場からはこの問い自体が揺らいできます。なぜなら、唯識派のヨーガ修行者は、
「あなたは『極楽浄土は実在しないのではないか』と思っていますね。それは、(私たちのこの世界は確かに実在するが…)という先入観を前提として生まれた問いではありませんか? では、この世界は本当に実在するのですか? ただの心の投影ではありませんか? あなたの心が映し出している世界と、私の心が映し出している世界はまったく違うかもしれませんよ。」
と問い返してくるでしょうから。西方極楽世界、というと「大乗仏教徒が創造した架空の世界」と思っている方も多いと思いますが、唯識の考え方や修行を経由すると、その架空性・非実在性がにわかに揺らいでくるというわけです。
 さて、ヨーガ修行としてイメージの力によって極楽世界を創造し(繰り返しますが、それはこの現実世界と同等のリアリティーをもちます)、その世界に意識をうつしてゆくという修行が実際に行われていたとしましょう。この修行を行なうためにはよほどの集中力や想像力、また芸術家や建築家のようなイメージ力が必要です。また何年にもわたる厳密な訓練が必要になることでしょう。おそらく世親のような天才、あるいはごく限られた一部の人々にしかできないに違いありません。

 それでは、イメージ力をもって極楽浄土を創造してゆくのではなく、アーラヤ識の外部にすでに現実の極楽浄土が存在するとしたらどうでしょうか。これはあながちおかしな話ではありません。なぜなら、アーラヤ識は私たちの心の母体、煩悩の源泉、酔生夢死の舞台ともいえるからです。そこから目覚めたのが仏の世界です。極楽浄土は仏の世界ですから、アーラヤ識の外にあり、身体の生命が尽きるときにはこのアーラヤ識自体が極楽浄土に往生する——このように考えられるのではないでしょうか。アーラヤ識自体は私たちの夢世界、迷いの世界の源泉であるわけですが、この源泉(「たましい」と呼んでもよいかもしれません)が往生の主体となって極楽浄土にすくい取られ、やがては覚りの境地に導かれ成仏する(自身の空性を覚る)のではないかと思うのです。
 この、アーラヤ識の外なる極楽浄土に導いて頂ける手段が称名念仏というわけです。われわれが考えつく修行法はすべてアーラヤ識=心の中から生まれ、その影響の中で取り組まれるものなので、アーラヤ識自体の外に出るためには外側からの助力を借りる必要があります。それが「他力」というわけです。経典を調べながらこれに気づいたのが中国の善導大師、法然、親鸞といった偉大な方々です。イメージ力で生み出す極楽浄土とは異なる、外なる極楽浄土からの「他力」です。

 果たして他力念仏によって本当に極楽浄土に導かれるのか、さらには覚りに至ることができるのでしょうか。それは今の私たちにはどうにも確認のしようがありません。(臨終の時には分かるかもしれませんが。)ただただ経典や先師の教えを信頼し、「必ず極楽浄土に導いて頂ける」と思って念仏を続けるより他はないのではないでしょうか——
 このようなことを思いながら、『一枚起請文』のような法然上人のお言葉を拝読していると、心を超えた彼方の世界、極楽浄土からの呼び声が聞こえてくるような気がします。◆

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