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2021.01

 
新春のごあいさつ
笠原 泰淳 記(令和3年1月)

南無阿弥陀仏
謹んで新年のお祝いを申し上げます。

「名号をきくといふとも 信ぜずばきかざるがごとし
たとひ信ずといふとも となへずば信ぜざるがごとし
ただつねに念仏すべきなり。」

大本山増上寺が「今月のことば」とされた法然上人のご法語です。
冒頭にいわれる「名号をきく」とは、どうして私たちは「なむあみだぶつ」と称えるのかその理由を学び知る、という意味です。そしてお念仏の救いを「信ず」。しかしながら実際にお念仏を称えなければ、それは信じていないに等しい、といわれるのです。最後に、「ただつねに念仏すべきなり」。

多くの人にとって、この「信」はなかなかやっかいなものでありましょう。今日どれだけ多くの人が「私は深い信仰をもって念仏しています」といえるでしょうか。では、半信半疑のお念仏でも良いのでしょうか?
私はそれで結構だと思っています。なぜなら、私たちは今いるところから始めるよりほかはないからです。今いる場所ではない、別の場所に立っているふりをする必要はありません。
たとえ半信半疑であっても折に触れてお念仏を称え、諸行無常を観じ、諸法無我と知る。本当の幸せとは何だろうかと考え、日々の自分の心の動きをながめる。亡き方の人生に思いをめぐらし、自分の人生はどうだろうかと心の奥に触れてみる。そうした暮らしの中に、じんわりと湧いてくるもの、育ってくるものがあると思うのです。やがて、「わが名を呼べ」という仏さまがどうしておられるのか、おぼろげでも感じられるようになってくるのではないでしょうか。たとえ今、「私は深い信仰をもっています」と言えなくても良いのです。
お念仏を称えていれば、人生の舵取りを誤ることはほとんどないでしょう。私たちの視点から見れば「間違えた」「失敗した」と思われるようなことであっても、仏さまからみれば、それは私たちに学びの機会を与えて下さっているのかもしれません。いつかまた、「これも無駄ではなかった」と思える日が来ることでしょう。

コロナ禍といわれる状況が続いておりますが、目の前のことに気を配りながらも、同時に広い視野、高い視点からの眺めを意識しながら進んで参りたいものです。

本年も何卒宜しくお願いいたします。合 掌

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