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2022.08

 
争いの愚かさ
山田 隆治 記(令和4年8月)

   毎年、8月になると15日の終戦記念日を中心に、戦争の無残さ、無意味さを訴える報道が多くなります。
 終戦から77年が経ちましたが、戦争を経験された方々のお話しは、聞いているだけでも胸が痛む思いがいたします。

 日本は世界でただひとつの核兵器による攻撃を受けた国です。昭和20年8月6日には広島に、そして8月9日には長崎に原爆が落とされました。

 私の母は長崎の生まれ育ちで、女学校の時に原爆の被害に遭いました。
 勤労奉仕で爆心地から約3キロ離れた工場にいました。工場が海岸縁の奥まった所にあったために爆風の直撃には会わずに済んだそうです。大変悲惨な状況であったのでしょうけれども、その時のことはあまり語りたがらないのは、思い出したくないのだと思います。
 長崎に落とされた原爆はたった一発で7万5千人の人の命を奪いました。その後も放射能の後遺症などで多くの方が亡くなり死没者名簿に載っている人の数は18万人を超えているそうです。原爆症で今でもなお苦しんでいる方々がたくさんいらっしゃいます。熱線によるケロイドが身体のいたるところに残っている方。放射能を浴びたために内臓に支障をきたしている方も多くおられます。
 原爆資料館には身体が焼かれて炭のようになった遺体や、激しい高温のために溶けて曲がっている鉄やガラス瓶もあります。
 私の母は幸い原爆の後遺症もなく、90歳を過ぎた今でも元気に過ごしています。
 私はいわゆる被曝2世です。健康に過ごしていますが、身体の奥底に原爆の後遺症が潜んでいるのではないかと思うこともあります。
 このように後々までも影を落とすことがある戦争はあってはいけません。多くの人の命を犠牲にすることは何の意味もありません。

 ウクライナでの戦争はなかなか終わる気配がありません。核兵器の使用が計画されているという報道もあります。長崎や広島で子供からお年寄りまでたくさんの方々が悲惨な目にあったことを繰り返してはならないのです。
 国と国との間での争いは、悲劇を生み何も得ることなく終わります。
 人と人との争いもお互いに良い結果を生み出すことはありません。相手より少しでも優位に立つことを望み、相手を出し抜いたり引きずり落とそうと考えます。相手の評価が高いと妬みの心が生じ、相手の評価が低いと優越感を感じます。自分の主張が一番正しいと思い、他者の意見を聞こうとしません。
 相手のことを思いやる心を持たなければいけないということは誰でもわかっています。相手のことを尊重し、理解しようとすることが大切だということもわかっています。
 でも、なかなかすんなりと人のことを受け入れることは難しいことです。

 この人間の本質を捉えて法然上人は「自身はこれ、煩悩具足せる凡夫なり」と説かれました。私たちは煩悩を具えた愚かな存在であるという意味です。
 争いを続けていくことは愚かなことでありそれは煩悩のなせる技なのです。
 悟りを得たいと思い、救われることを望みながら、煩悩に支配されている私たちは思うようになりません。仏教の学問を身につけることもできず、厳しい修行に耐えることもできません。
 法然上人はこのような愚かな存在である私たちが救われる方法はないものかとお考えになりました。
 そして、お経の中に、お念仏を称える者は阿弥陀様があらゆる世界の誰をも一人残らず平等に救い取って下さると書かれていることをお見つけになりました。
 これで法然上人のお念仏の教えが確立されたのです。
 私たちのように、煩悩を断ち切ることもできず、罪を作り続けている者でもお念仏をお称えすることで阿弥陀様が間違えなく救いの手を差し伸べて下さいます。
 毎日の生活の中で、お念仏をお称えすることを続けてまいりましょう。☸

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