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2023.08

 
宇宙を反対側から眺める?
笠原 泰淳 記(令和5年8月)

 7月8月はお盆の時期です。また多くの寺院では、この時期に「お施餓鬼(おせがき)」、「施食会(せじきえ)」という行事が営まれます。
 お盆とお施餓鬼は、もともと別々の経典に基づいた別々の法要なのですが、餓鬼の世界からの救いと先祖供養という共通点があることから同じように捉えられることが多いのです。ちなみにお盆の供養を説くお経には、それを行なう日を7月15日に定めています。(実際には盆行事は7月13日から16日、また地方によってはひと月遅れの8月中旬に行なわれます。旧暦の7月15日やそれら以外の農閑期の時期に行われるところもあります。)それに対して、お施餓鬼の供養を説くお経では供養を行なう時期は特に定められておりません。一年中いつ行なっても構わないのです。

 今回は、このお施餓鬼で読むお経についてお話しします。施餓鬼供養の冒頭に読む「破地獄偈(はじごくげ)」という偈文(げもん)についてです。
 本文は次の通りです。

若 人 欲 了 知(にゃくにん よくりょうち)
三 世 一 切 仏(さんぜ いっさいぶ)
応 観 法 界 性(おうかん ほうかいしょう)
一 切 唯 心 造(いっさい ゆいしんぞう)

 では、初めのところから見て参りましょう。「若い人」ではありませんよ。
「もし人が、三世の一切の仏を了知せんと欲すれば、まさに法界の性を観ずべし。一切はただ心の造れるところなり、と。」
 このようになります。もう少しくだいて説明しますと、
「もしあなたが、過去から未来にいたるすべての仏(の境地、仏の世界を)明らかに知りたいと思うならば、まさにこの宇宙の本性を観察しなさい。
—すべては、ただあなたの心が造り出したものである、というふうに。」

 ここでは、私たちが周囲の世界をどのように認識するかということがテーマになっています。
 私たちの日常感覚としては、まず客観的な世界、客観的な宇宙というものが存在していて、それを私たちが眺めている。もし私たちの観察の精度が上がれば、私たちはより正しく宇宙を眺めることができる。より正しい宇宙像を心に描くことができる。これが普通の感覚ではないでしょうか。
 ところが釈尊の洞察によれば、その正反対なのです(出典の『華厳経』では覚林菩薩の言葉として説かれます)。
「私たちの心が全宇宙を造り出している」というのです。

「…ええと、ちょっと待って下さい。例えばですが、NASAの最新型の望遠鏡によって、宇宙が形成された最初期の銀河がたくさん発見された、というニュースが最近ありました。それらの天体も私たちの心が造り出したものだというのですか? それらは、生命が宇宙に現われる前のものだと思うのですが。」

 確かにそのような疑問が起こりますよね。
 釈尊の洞察は、心が出発点です。たとえばショックなことが起こって私たちの心が落ち込んでしまったとき、周りの世界がとても無味乾燥に見えることがあります。世界は色彩や香りを失い、道端に咲く花々も目に入らず、鳥たちの囀りも耳に聞こえません。幸せそうな人を見ると怒りが沸いてくることさえあるかもしれません。
 また心が欲にとらわれている時は、世界がすべて損得勘定で成り立っているように見えるかもしれませんね。先の宇宙の新発見の話でも、それぞれの学者がそれぞれの学説に準拠して天体を眺めるならば、学者によって異なる宇宙像が見えているかもしれません。
 ですから、周囲の環境から発せられるさまざまな情報が私たちの心に写るのではなく、私たちの心から投影されたものが私たちを取り巻く環境をつくり、それをまた私たちの心が眺めている。これが釈尊の洞察だと思われます。(私たちの心が物理的に天体を創造するということではありません。)
 この、「私の心が私の世界を造り出している」という見方が重要です。冒頭の偈文のタイトルに『破地獄偈(はじごくげ)』とあるのは、たとえ自分が地獄にいると思っていてもそれは実は自分の心が造り出したものに過ぎない、ひとたびこのことに気づけば地獄の苦しみは破られ(消滅し)、仏の世界が理解できる。このようなことなのでしょう。

 そして実を言いますと、どうしてお施餓鬼=餓鬼供養の冒頭にこの偈文を読むのか、私もいろいろと調べてみたのですが、はっきりとした説明が見つからないのです。六道輪廻説では地獄界と餓鬼界は別の世界です。餓鬼界の霊を供養するのにどうして地獄の話が出てくるのか。
 これは私見になりますが、まず「地獄に堕ちるかもしれない」という恐れを餓鬼たちの心から除いておいて、安心して施餓鬼の供養を受けてもらおう—このような趣旨かもしれません。ただ私が今回この偈文を取り上げたのは、餓鬼供養の詳細に立ち入るためではなく、「一切唯心造(いっさいゆいしんぞう)」という句が私たちの日常生活にも適用できる重要な教えだからです。
 私たちは周囲の世界をすべて、自分の色眼鏡を通じて自分の心を投映しながら眺めている。心が世界をいわば造っているのだから、そこを洞察できれば世界はいくらでも変わる。覚りの世界さえ理解できるようになる—このように釈尊が説かれているわけです。コラムのタイトルを〈宇宙を反対側から眺める?〉としたのはこの洞察を意味します。

 この破地獄偈は先に述べたように『華厳経』からの引用ですが、初期の経典である『ダンマパダ』においても釈尊は説かれます。

 ものごとは心にもとづき、心を主人とし、心によって作り出される
 もしも汚れた心で話したり、行なったりするならば、苦しみがその人につき従う。車をひく牛の足跡に車輪がついてゆくように。
 ものごとは心にもとづき、心を主人とし、心によって作り出される
 もしも清らかな心で話したり、行なったりするならば、福楽がその人につき従う。影がその身体から離れないように。

 ご覧のように、「破地獄偈」に通ずる教えが説かれているのがお分かりでしょう。
 この「心」をいかに制御するか。誤解や執着、欲や怒りといった煩悩に満ちたこの心から、いかにして覚りの花を咲かせることができるか。これが仏教の一大テーマなのです。
 そしてここから「聖道門(しょうどうもん)」と呼ばれる自力修行の道、またそれに対して「浄土門」というお念仏の教えが生まれてゆくことになります。☸

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