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2015.11

 
死について(下)

死について(上)
死について(中)

 私たちの心の深い部分、底流の部分を仏の力(本願力)に委ね、お導き頂くという話をいたしました。
 では主題に戻りまして、私たちは自分の死をどのようにとらえれば良いのでしょうか。
 死を迎えるまでに肉体は病に罹っていたり、老化が進んでいたりします。私たちは徐々に体力を失ってゆきます。一人で起き上がることも難しくなる。表層の意識も眠りに近い状態となり、徐々に気力を失ってゆく。これは喩えて言えば、水道の栓を少しずつ締めてゆくのと似ています。水が出ている蛇口の栓をしぼってゆくと、水の流れが少しずつ細くなってきます。どんどん細くなり、やがて水の流れが止まる。これが「死」です。体力と気力がどんどん細く弱くなり、やがて生命の流れが止まる。「死」というのは言葉上のことであって、実際には「死」という恐ろしい現象が起こるわけではありません。「生」という現象が停止するだけです。ですから私たちは肉体と表層意識に関しては、死を恐れる必要はありません。なぜならそれは眠りに入るのと似ているからです。眠りであれば毎晩経験しています。睡眠に入るときに苦しみはありません。何も恐れる必要はないのです。睡眠の場合には翌朝になると肉体も意識も再び動き始める。違いはそこだけです。
 病によっては痛み苦しみを伴いますが、今は緩和ケアが進んでいるので、さほどの心配はいりません。葬儀のときにご臨終の様子をご遺族に尋ねますと、「最期まで苦しみませんでした」「いっときは痛みがあったようですが、亡くなるときは安らかでした」という方が大半です。というより、苦しみながら亡くなったという話はこれまで聞いたことがありません。
 内科の医師を長年勤められている方にお聞きしたところ、「確かに苦しみ悶えながら亡くなった、という患者さんはこれまで一人もいませんね。」というお話でした。最期のときには、安らかな眠りに入るように活動を終えることができるのです。(注記・但し、事故などで急に死を迎える場合、その直前に恐怖や後悔などの激しい感情が起こることは考えられます。)
 従って、問題は心の深い部分です。
 意識の届かない深い部分に、思ってもみないような恐れや煩悩が渦巻いている。そこにはこれまでに行なった善き行ない、悪しき行ないもすべて刻まれています。それらは今生のものばかりでなく、過去生より引き継いでいるものもある。この膨大な深い心の領域を何とか光に導いて頂く―これが浄土の教えです。

 まとめましょう。私の結論はこうなります。
 肉体の停止と表層意識の停止については恐れる必要なし。心の深い部分については死後もその流れが続いてゆくと思われる。その暗闇の部分は阿弥陀仏の光明が照らし導いて下さる。
 このように気持ちを定め、人生の最期についての憂いを払い、お念仏を中心とした善き人生を歩みましょう。これが私からの提案です。
 善き人生?そうです。死に対する不安がなくなれば、今や恐れるものはありません。後悔のないように、自分に合った創造的な生活、深い悦びが感じられるような人生を歩んで頂きたいと思います。

 あなたの明るい表情は、周囲の人たちの心も明るく照らすに違いありません。◆

(了)


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